明日香と付き合うことになった翌日。
 山田は一時限目の授業が始まる九時になっても自宅のリビングにいた。寝坊して慌てているという様子もなく、パジャマがわりのジャージとシャツ姿のままで、いつもより遅い朝食をとりながらぼんやりテレビを見ている。
 両親は共働きのため、家にいるのは山田一人である。
 そう、山田は学校を休んでいた。それも小・中・高、通して初めてのずる休みである。
 普段から真面目な息子の、風邪をひいたみたいだから学校を休む。という言葉を信じて、
「ひどいようだったらきちんと病院に行きなさい」
「こんな時期に珍しいわね。暖かくしてゆっくり休むのよ」
 と心配する言葉をかけて、両親は既に出かけてしまっている。
 後ろめたい気分で、もそもそとトーストを口にしながら山田は溜息をついた。
 いまさらどうしようもないこととはわかっていたが、それでも憂鬱な気分になる。
 昨日の明日香のクラスメートへの交際宣言。それがずる休みと、現在の憂鬱の原因である。
 どちらかと言えば、おとなしく、目立たない山田にとって自分が注目の的になるということは予想外のことであり、どのように対処して良いのかさっぱりわからないことであった。
 軽く笑って流せばみんなの興味は他に移っていくとわかってはいたが、なまじ真面目なばかりに真剣に悩むこととなり、結果、時間稼ぎのずる休みとなった。
 でも……本当に吉崎さんと付き合えるなんて昨日までは思ってもみなかった。
 一晩たった今でも、どこか夢ではないかという気がする。
 そうだ。夢じゃないんだよな。凄く嬉しい。
 頬が緩み、思わず笑みが零れた。
 それに、吉崎さんが思ったとおりにやさしい娘だったし。
 幸せな勘違をしたままコーヒーを一口。
 あんな娘と僕が付き合えるなんて、生きてて良かったなぁ……。
 ぼんやりと幸せに浸る山田の脳裏に女子トイレでの出来事が甦った。
 あの快感が思い起こされて、顔の緩みがさらに悪化し、だらしない顔になる。
 山田はその場に家族がいなかったことを感謝すべきだろう。
 とりあえず、今日一日で覚悟を決めて、明日学校に行こう。
 そう決心しすると、山田は愛用のマグカップのコーヒーを飲み干し、食器をキッチンに持っていった。
「これからどうしようかな」
 食器を洗い終えた山田が呟いた。
 学校のある平日の午前中に家にいたことなど、病気で学校を休んだときぐらいしかない。
 病気のときはずっと寝ていたら時間が過ぎたが、今自分は健康そのものだ。
 外に遊びに行くことなど思いつきもせずに山田は悩んだ。
 ちらりと時計に目をやるともう十時だった。
 とりあえず着替えよう。そう考えて自分の部屋に戻ろうとしたとき。
 ピンポーン。
 玄関でチャイムが鳴った。

 山田家のインターホンが押される一時間と少し前。
「おはよー」
 いつもより五割増しの元気で朝の挨拶をしながら教室に入る明日香。
 クラスメートに声をかけながら自分の席に向かった。
 席につくと、待ちかねたように友人が集まってくる。
 当然、友人からは山田とのことを聞かれるわけだが、思わせぶりなことだけ言ってお茶を濁す。
 席に座って友人とたわいもない会話を続けながら、頭では別のことを考える。
 昨日は逃げられてしまったが、今日は逃がさない。
 みんなに二人のラブラブぶりを見せつけねば。
 とりあえず教室に入ってきたところに飛びついて思いきりひっつこう。
 山田が知れば、再び教室から全力で駆け出してしまうようなことを考えながら、明日香がにやにやしていると、背後から怒ったような声がした。
「昨日の約束忘れてただろう」
 振りかえると美冬が立っている。
「約束?」
「したことも忘れたのか」
「あぁ! あの初めてのセ……」
 爽やかな朝にあまりふさわしくない単語を口にしようとした明日香の口を、美冬が素早く塞いだ。
「声が大きい!」
 美冬が真っ赤な顔で怒鳴った。
「ごっめーん。昨日は色々あったからつい忘れちゃって」
 笑う明日香を見て美冬の脳裏に、満面の笑みを浮かべて山田との交際宣言をしていた昨日の明日香の姿が浮かんだ。
「確かにそのとおりだから仕方ないかもしれないけど……。今日はちゃんと相談に乗ってよ」
「うん。今日は忘れないから安心して」
「でも、明日香と山田が付き合うなんて予想もしなかったから、驚いた」
「まぁねぇ。私も驚いたもん」
「そんな他人事みたいな」
「いろいろあるんだって」
 能天気な明日香に美冬が呆れかえっていると、担任教師が教室に入ってきた。
 友人と談笑していたクラスメートがばらばらと席につく。
「はい、おはよう。よーし、それじゃあまず出席とるぞ」
 教壇に出席簿を開き、生徒の名前を呼んでいく。
「よし。今日の休みは山田だけだな」
「えっ? 先生!」
 明日香が椅子を鳴らして立ちあがった。
「どうした吉崎」
「山田、今日休みなの」
「ああ、電話で連絡があった。風邪だそうだ。そういえば吉崎、お前昨日山田を巻き込んで騒ぎを起こしたらしいな。お前と違って山田は真面目なんだからあんまり悪い道に引き込むんじゃないぞ。今日の風邪もそのせいなんじゃないのか」
 どうやら明日香の人騒がせな交際宣言はすでに教師の間にも伝わっているらしかった。
 しかし、冗談めかした担任の話は、ほとんど明日香の耳に入っていなかった。
 なぜなら明日香は山田が風邪で休みだということで頭が一杯だったからだ。
 これは……看病のチャンス!
 風邪で寝こんでいるカレシの看病なんて、いきなりラブラブなことができる!
 こんなのお見舞いに行くしかないじゃない!!
 おかゆをすくって山田の口元に運んでいる自分を想像して明日香が上機嫌になる。
「先生!」
 勢い良く手を上げた明日香。
「どうした」
「急にすごく頭が痛くなって、絶対にこれ風邪だから私早退します!!」
 その言葉が真実ならば、世の中の人間すべてが病人になってしまうようなことを言いながら、明日香がカバンを持って立ちあがった。
「お、おう」
 勢いに押されてつい返事をしてしまった担任が、しまった。と後悔する間もなく、明日香は教室を飛び出してしまった。
 自称病人が走り去る後姿を見送りながら、生徒・教師の隔てなく、教室にいた全員が同じことを考えた。絶対に山田に会いに行くつもりだ、と。
美冬がこっそり溜息をついた。
「いつになったら私の相談に乗ってくれるんだろう」


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