「キスするよ」
 山田が囁いた。
「……うん」
 明日香が、少し間を置いて応えた。
 明日香を怯えさせないように、山田はゆっくりと顔を近づけた。
 互いに、自分の心臓の音が相手に届くのではないかという思いを抱いて、触れ合う瞬間に近づいていく。
 ひどく長い時間、目を閉じているように感じ、目を開けて山田の様子を窺いたい、そんな考えが明日香の頭をよぎったとき、唇に暖かいものが触れた。
 待ちに待っていたものが自分に触れた喜びが、明日香の背筋を駆け上る。
 それは同時に、山田が恋人の唇のとろけるような感触にめまいを感じた瞬間でもあった。
 が、二人の感激はあっさりと、中断させられた。それぞれの緊張と経験不足によって。
 かちん。
 硬い音が、聞こえた。
 歯がぶつかってしまったのだ。
 飛びのくように、二人は顔を引き離した。
 大きく開かれた瞳が明日香の驚きを現しているように山田には見えた。
「ご、ごめ……」
 情けなさから山田が謝ろうとするのを、明日香がさえぎる。
「ちょっと待ってね」
 固まったまま、ソファに座っている山田のひざの上に明日香がまたがった。もちろん顔は愛しい人に向いている。
「もう一回」
 突然の行動に、山田は明日香が顔を見上げる。
 照れ笑いを浮かべた明日香が山田の手を取った。
「はい、私をぎゅってしといてよ」
 言われるままに、山田は明日香の背に手を回す。
「こ、これでいい?」
「うん。今度は歯ぶつけないように、もう一回」
 先ほどの間抜けな失敗が二人の頭をよぎり、ゆでだこのように赤くなった。
 とくに明日香のほうは自分で言っておきながら、耳まで桜色に染まっている。
「とっ、とにかく……ん」
 明日香が再び目を閉じた、先ほどと違い、唇はわずかに開かれている。脱色され、金色になった髪がさらさらと額に零れ落ちた。
 あらためて気合を入れなおし、山田が顔を近づける。明日香の背にまわした手に、汗がにじむのがわかった。
 先ほどの温もりが、もう一度、二人に戻ってきた。
 少しずつ、唇が触れ合う面積が増していく。
 どちらともなく顔の位置をずらして、同じ失敗を繰り返さないようにする。
 私……今キスしてる……んだよね?
 柔らかい。山田って男なのに。
 山田の体あったかいな。
 キスってすごく優しい感じになれるんだ……。
 時間としては数秒だったが、明日香には関係なかった。ぐるぐると、とりとめのない考えがぼんやりした頭に浮かんでは消えていく。
 あっ! 舌入れなきゃ。
 無理にそうすることもないのだが、明日香の知識では、恋人同士のくちづけに絡み合う舌は必須だった。
 閃いたと同時に、迷うことなく明日香の舌は動いていた。わずかの隙間を押し開くようにして、自分の唇をくぐり、明日香の舌が山田の唇に触れる。
 驚いたのは山田である。
 まさか明日香のほうから舌を絡めてくるとは思わなかった。
 もし、するならば男の自分が明日香をリードしなくてはならない。そう思っていただけに、明日香と付き合うようになってから幾度目かわからない情けなさをまたも味わってしまった。
 そんなことを考えている間にも、明日香の舌は山田を求めてくる。
 山田は大慌てで、それに応えるため、無我夢中で舌を突き出した。
「ん……ふ」
 明日香が満足気な息を洩らす。
 さらに山田が明日香の舌を吸い込む。
 生まれて初めて味わう、蕩けるような感触に山田は歓喜した。
 静かに、二人の唇が離れていく。
 甘美な体験にぼんやりとした頭で、山田が明日香の様子を窺った。
 上気して染まった頬が明日香の愛らしさをよりいっそう惹きたてている。
 明日香は目覚めたばかりのような、心ここにあらずといったふうに見えた。
「……はぁ」
 なまめかしく、明日香が溜息をついた。
「ディープキスしちゃった」
「う、うん」
「でも……」
「でも?」
 どんなダメだしが飛んでくるのかと山田は身構えた。
「いつ息していいかちょっとわかんないかも」
 予想外の言葉に、山田の表情が緩む。
「ちょっ、なに笑ってんのよ!」
「ごめん。なにか怒られるのかと思って」
「私だってあんなキスしたことないんだから、なにがいいとか悪いとかわかんないって。だから笑わないでって、ほんとすっごい息、苦しかったんだから」
 明日香の可愛らしい悩みも山田には届いていなかった。明日香が喋るたびに動く、濡れた唇に見とれていたからだ。
 自分が奪ったとはとても思えない。夢じゃないだろうな。できることなら頬をつねって確かめてみたいが、もし夢から覚めてしまったら非常にもったいない。つねるべきかつねらざるべきか。
 山田が夢想している間も明日香の言葉は続いている。
「聞いてる?」
 様々に形を変える唇が自分に問いかけているのに気付き、ようやく山田は正気に戻った。
「え?」
「え、じゃない!」
「あ、えーっと、あ! 鼻で息すればいいんじゃないの」
 山田の解答に、明日香はしばらく考え込んだが、
「じゃ、次するときはそれ試してみる」
「うん。でも、最初のときはごめん。歯あたっちゃって」
「恥ずかしかったんだからそれはもうなしで。ね!」
「わかった」
「それとね……」
「なに? どうかした」
「お願いがあるんだけど」
 明日香が今までの元気な様子とは一変して、うつむき、上目づかいで切り出した。


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