うにうにとほっぺたを拭かれながら明日香は目を閉じてされるがままになっている。
 人にこんなことやってもらうの久しぶりだなぁ。
 叶姉妹とか毎日こんななんだろうな。
 なんか私もセレブになったみたい。ちょっとお姫様気分でいいかも。
 まさか顔射されているお姫様もいないだろうに。明日香が少しばかり間の抜けた想像をめぐらしている間に、顔はすっかり綺麗になっていた。
 大量のトイレットペーパーを便器に捨てると、山田がようやく手を止めた。
「はい。終わったよ。手は自分で洗った方がいいよね」
「だめ、手も」
 甘えた声を出して綺麗に手入れされた爪を山田に向ける明日香。
「うん」
 素直に頷く山田。からから音をさせて紙を巻き取ると丁寧に手を拭きだした。
「ね、私の指って綺麗だと思わない?」
 明日香が細い指を目で示した。
「え、う、うん。綺麗だと思う」
「やっぱり。私の一番自信あるとこなんだ」
 満足気な笑みを浮かべた明日香は拭き終えたばかりの右手を持ち上げた。
「そうなんだ。でも吉崎さんは指だけじゃなくて全部が可愛くて綺麗だと思うよ、僕」
「あ……ありがと」
「うん」
 ぎこちなく礼を言う明日香に、微笑む山田。
「言うときは言うタイプなんだ」
「なにが?」
「……別にいいけどさ」
「よし、おしまい。一応自分でも洗った方が良いと思うよ」
「わかった、そうする」
 明日香は素直に洗い場に向かった。
 蛇口を捻り、流れ落ちる水でまず手を丁寧に洗い、次に濡らしたハンカチで顔をゆっくりと拭う。これも山田にやってもらえば良かったかな。そう思いながら。
 山田も横に来たが、こちらは手を洗うだけなのですぐに済んでしまった。
「僕、外で待ってるね」
 明日香はすっかり忘れていたが、女子トイレは男には非常に居づらいものだ。
 興奮が冷め、頭が冷えた今となっては常識人の山田にとって一刻も早く立ち去りたい場所だった。
 そそくさと出ていく恋人の背を見ながら、明日香が口をすすぐ。
 精液が混じっているせいか、なんとなくどろっとしている気がした。
 実際には普通の水と何ら変わらないのだが。
「最初は美冬への見栄だけだったんだけどなぁ。……ま、いっか。彼氏ができたんだし」
 唇が綺麗な曲線を描き、明日香の美貌に笑顔を添えた。
 一応の作業をすべて終え、鏡でじっくりチェックした明日香は、後できちんとメイクをしなおすことを誓って、トイレから出た。
「お待たせ」
「う、うん」
「じゃ、教室にもどろっか」
「うん」
「とりあえずさぁ、お互いに初めてだったってことで今日の顔射は許したげる」
「ご、ごめん」
 突然飛び出た顔射発言に思わず赤面した山田は辺りを慌てて見まわした。
 幸い授業中ということもあって廊下には二人しかいない。
「ま、私のテクが凄かったってことで」
「……ありがとう」
 山田はどこと無く釈然としないものを感じながら、一応礼を言った。
「だからって調子に乗んのは無しね。エ・ロ・い・山田に言っとくけど、顔にかけんのは私がいいって言ったとき以外これから無しね。髪の毛についたらすっごい取れにくいんだから」
 前髪をいじる明日香。
「気をつけるよ」
 くだらない会話をかわしながら、教室に戻ろうとすると授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「あ、終わっちゃった」
「僕授業サボったの初めてだ」
「いやぁ、今日は初体験尽くしですなぁ」
 にやにやと笑いながらオッサンのようなセリフを吐かれて山田の頬が紅潮する。
「なっ!」
「またさぁ、サボって一緒になんかしようよ」
「……うん」
「だからってエッチなことじゃないよ」
「わかってるよ!」
 二人は教室から出てくる大勢の生徒の流れとは逆に、騒ぎながら廊下を歩いて教室へ向かった。
 
 その日、最後の授業が終わり、これからクラブ活動をする者、家に帰る者、どこかへ遊びに行く者、それぞれがそれぞれの準備でざわつく教室の中、明日香は教卓へ向かった。
 黒板を背にすると、明日香は机をバシバシ叩きながら大きな声をあげた。
「はいはーい! 注目ー!」
 また明日香がなにかしでかすのかと、教室中の目が教卓の方を向いた。
 もちろん山田も何事かと明日香の方を見る。すると、明日香と目が合った。妙に楽しそうな笑顔に山田は嫌な予感がした。
「本日からー、私、吉崎明日香は山田と付き合うことになりましたー! 今まで私に色々言ってくれた人ごめんねー」
 山田は椅子から大きな音をたてて転げ落ちた。
 能天気な笑顔がやけに輝いて見える。
 いきなりの交際宣言からきっちり十秒後、明日香への注目が一斉に山田に移る。
 ざざっ。と、視線の動く音が確かに山田には聞こえた。
 真面目でどちらかといえばおとなしい山田と、遊び人の明日香が付き合うなんてどういうことだ? 全員の好奇心に満ちた目がそう言っている。
 中には憎しみと嫉妬のこもった視線もあったが。
 ここから消えて無くなることができたらどんなに楽だろう。くらくらする頭でそう思ったが悲しいかな、山田はただの人間だった。
 そこで山田はカバンを掴むと脱兎の如く駆けだし、教室を飛び出した。耳まで赤い顔となって。
 背中に、どこ行くのよー。という明日香の声を聞きながら。
 明日は初めてのずる休みをすることになりそうだった。


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