薄暗い廊下を大小二つの影がゆっくりと進んでいく。
 ひとつは中年の男、中肉中背で地味な服装、と言ってもこの時代には珍しい洋装である。にも関わらず、不思議なほどに特徴のない男だった。ただ、その鋭い目つきだけが男が只者ではないことを現していた。
 もうひとつの影は女だった。しかし、まだ女と言うにはためらいを覚えるような、少女から大人の女性へと変わる一歩を踏み出しかけた程度の年頃である。少女の前を歩く男とは違い、一目見たら思わず感嘆の溜息を漏らさずにはいられない、将来の楽しみな素晴らしい美貌の持ち主だった。こちらは洋装ではなく、女学生のような袴姿である。だが今、そのはかなげな顔には不安が浮かんでいる。
 屋敷に入ってからもうずいぶんと歩いたのだが、いまだに誰にも会っていないことが、原因のひとつであるだろう。
 少女はこのわけのわからない状況に至るまでをぼんやりと思い返してみた。

 いつものように父、母、弟、自分の四人で夕食をとり終えた後、風呂に入り、もう休もうかと思っていたころに、両親から居間に呼び出されたのだ。
 ひどくつらい顔をして座っている両親の様子をいぶかしんだものの、少女は黙って二人の前に座った。
「なにか御用ですか」
 少女が尋ねると、父はつらそうな顔をさらに歪めて、地図と封筒を手渡し、こう言った。
「明日、その地図に書いてある場所に行きなさい」
 父の事業が上手くいっていないらしいことは知っていたから、なんとなく自分がどうなるのか想像はしていた。そうして今の状況である。ついに来るべきときがきた。そう思ったが、それは顔には出さず、少女は静かに、わかりました。と言った。
 翌日、家を出るときに、事情のわかっていない幼い弟が、でかけて行く自分をひどく羨ましがったのが、なんとなくおかしかった。
「いってきます」
 少女が言うと、父親がただ一言、すまん。と言った。母親は耐えられなくなったのか、両手で顔を覆うと嗚咽を漏らし始めた。
 地図に書かれたところは街の中心部だったので、まだ珍しい蒸気機関車に乗っていった。
 流れるように過ぎていく景色をただ見ていると、あっという間に駅に着いた。
 そこからしばらく歩くと、大きな屋敷があった。
 地図に書き添えられていたとおりに、門の脇に立っている門番達に声をかけ、封筒を見せた。
 よくあることなのだろう。若い門番の一人が、門を開け、広い中庭を通り抜け、屋敷の中に連れて行ってくれた。
 そこからは年老いた小間使いの女が部屋まで案内してくれた。
 部屋に向かう途中に、老婆が、
「あんたは運がええ。連れてこられたところがここで、ほんに運がええ」
 しきりにそう繰り返していたのが印象的だった。
 部屋に案内されると、見たこともないようなふかふかのソファに座って待っているように言われた。老婆はしばらく部屋の隅でごそごそしていたが、やがて少女の前に暖かい紅茶とクッキーを運んでくると、また、運がええ。そう少女に声をかけて部屋から出て行った。
 一人になって部屋の様子を伺うと、そこはこれまで少女に縁のなかった異国のもので溢れかえった部屋だった。今座っているソファだってそうだし、目の前のテーブル、壁にかかっている絵、隅に置かれているなんだか高価そうな置物。数年前の明治維新以後、社会が西洋の影響を急激に受けたとはいえ、これほど全てが洋風で、かつ高級そうなものなど話に聞いたこともなかった。
 もしかして、自分がこれから会うのは外国人なのだろうか。言葉が通じなかったらどうしよう。少女がそんなことを考えながら、部屋の様子に圧倒されていると、扉がガチャリと音をたてた。
 どきりとして少女がそちらに目をやると、口ひげの立派な三十程度の男が入ってきた。日本人だった。
 男が自分の目の前のソファに座るのを少女が目で追っていると、男が口を開いた。
「やあ、はじめまして。私のことは悪丸と呼んでくれたまえ。さて……君は自分の状況を理解しているかね?」
 やけに軽い調子だったので、拍子抜けしたが、少女はこくりと頷いた。
「はい。だいたい」
 その答えに満足そうにうなずき返すと、男はパイプを取り出し火をつけた。そして、気持ちよさそうに煙を吐き出すと、にっこり笑った。
「ふむ、なかなか頭の良さそうな娘だな。えーっと、君の名前は……」
「大山咲です」
「そう、咲君だったね」
 ちゃん、ではなく君。そう呼ばれたことが大人扱いされたようで、妙に嬉しかった。
 男が再びパイプに口をつけ、ゆっくりと煙をくゆらせた。
「君にはこれから、教育を受けてもらう」
 教育。その言葉に咲は思わず身を硬くした。
「大丈夫、君が想像しているようなことではないよ。まともな教育だ。礼儀作法、炊事洗濯、ある程度の読み書き」
 そこまで言うと、男はちらりと咲の様子を伺った。
 咲は強張った声で男に尋ねた。
「本当にそれだけなんですか?」
「拍子抜けしただろう。まぁ、ここでは……だがね」
 やっぱり。咲はなかばあきらめに似た感情を覚えた。
「ま、よくある話だよ。維新で世の中はがらりと変わってしまった。新しい世の中に順応できる者とできない者。できた者は大金を得て、できなかった者が借金をつくる。できなかった者が借金のかたに子供を持っていかれる。できた者が借金のかたに子供を持っていく。まったくよくある話だ」
 抑揚のない、ただ軽いだけの調子で男が言うのを、咲はじっとうつむいて聞いていた。
「ま、とは言えだよ。君はまだ運がいいほうだ。私はまっとうな商売をしていないが、他のまっとうでない奴等よりはまっとうな人間だ。ひどい連中になると、人間をもの以下に扱うからね。私は金のためにそこまではできない。ま、似たようなことはしてるがね、だいぶましだ。人間を人間扱いしてくれる人間にしか人間は売らない。ま、話がだいぶわき道に逸れたが、ある意味では私は慈善事業をしているといってもいいよ。借金のある人間にいろいろと教えて、仕事の世話までしているんだから。ま、君が思っているほどひどいことにはならないと思うよ。それじゃあ、ま、今日からがんばってくれたまえ。そうそう、お金は半額を今日、一月後に決まるきみの奉公先からきみで良いと返事があったときに残りと、運がよければ追加の上乗せ分をご両親に送るから」
 テーブルに置かれていたベルを、男が鳴らすと、ドアから一人の男が入ってきた。まるで特徴のない男だった。
「彼が今日から、君の教育係だ。ま、仲良くやってくれ。ま、私とはもう会うことはないだろうが、一応言っておくよ。それではまた」
 最後まで威厳のないまま、男は部屋から出て行ってしまった。

 それから、咲が想像し、覚悟していたようなことが一切ないまま、礼儀作法などを教え込まれた。閨事に関する教育も行われたが、知識だけで、咲に手が出されるようなことはまるでなかった。
 そして、一ヶ月がたったとき。教育係の男に、
「お前の行き先が決まった」
 と、言われて馬車で連れてこられた屋敷を、咲は延々と歩いているのだった。
 歩きながら、咲は屋敷の広さに驚いていた。今まで教育を受けていた屋敷も、見たことがないほど大きかったが、今いるここはそれよりもさらに広い。
 先の屋敷とは違い、純和風のここはその広さと人気のなさのせいでまるで妖怪屋敷のように思える。
 ときおりきしむ床板が、その年季を感じさせた。
 こんなに広いのに人がいないなんて、もったいない。咲が呆れかえっていると、ようやく男が立ち止まった。
「ここだ」
 それだけ言うと、目の前のドアを開ける。
 部屋の中に入っていく男に咲も慌ててついていく。
 廊下と同じく、薄暗い部屋だった。
 雑然とそこら中にものが置かれていて、足の踏み場もないとはまさにこのことだ。
「秘中屋さん。女をつれてまいりました」
 男の丁寧な口調に咲が驚いていると、部屋の奥でごそごそ音がした。
 咲がよく目を凝らしてみると、ものが山積みになっている一角に男がいた。
 熱心に何かをしているようでこちらを見ようともしない。
「今、大事なところなんだ。女は隣の部屋で待たせておいてくれないか」
 声からすると若い男のようだった。
 教育係の男が部屋の奥へ声を投げかける。
「それはよろしいですが、私は待っていられません。この後もいろいろと仕事があるもので」
「ああ、わかったよ。それでかまわないから」
「それでは女は隣の部屋で待たせておきます。また何か御用がございましたら、いつでもご連絡を」
 相手が見てもいないのに教育係が頭を下げる。
 そうして部屋をでると、隣の部屋に咲を連れて行った。
 隣の部屋も先ほどの部屋と同じく、荒れた部屋だったが、教育係が適当にそこらのものをどかすと、ぺたんこになった座布団が出てきた。
 咲をそこに座らせると、教育係が言った。
「いいか、さっき言われたように秘中屋の旦那が来るまでここで待ってるんだ。悪い人じゃねぇから、言われたとおりにしてりゃあ、ひどいことにはならねぇ。それじゃあ元気でな」
 出会ってから初めて、優しい言葉をかけられた咲が驚いているうちに、教育係は部屋を出ていった。
 いい人だったんだ。咲は素直に感激していたが、いい人がこんな仕事をしているわけがない。


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