数週間後。穀蔵院が用事で東京にやってくるついでに秘中屋によるという知らせが勘九郎に届けられた。
 知らせのあった四日後、一台の馬車が秘中屋の前に現れた。
 馬車が止まると、御者が丁寧にドアを開いた。
 うやうやしく開かれた扉から、髪を綺麗に撫で付けた三十を少し過ぎたぐらいの男が顔を見せる。まだ珍しい洋服に身を包んでいる。
 男は素早く降りると懐から懐中時計を取り出した。
 続けて白髪の紳士が姿を見せた。こちらもやはり洋装である。
「旦那様。このあとも大事な予定がございますので、こちらは一時間後には出発いたしませんと」
 どうやら男は白髪の紳士の秘書らしい。
 紳士がうるさそうに手を振った。
「そないにうるそう言わんでもわかってるがな。ほなお前はそこで待っとれ」
 咲が帳簿をつけていると暖簾をくぐって白髪の紳士が店に入ってきた。
 まだ明るいうちから珍しいこともあるものだ、と思いながら挨拶をする。
「いらっしゃいませ。本日はどんな御用でしょうか」
「ん? おお! あんたが咲ちゃんかいな、噂は喜兵衛から聞いとるで。なんでも大層ええ娘らしいやないか」
「あの……」
「いやいや、すまんな。ついついこっちが知ってるもんやから。秘中屋さんはおりはるか」
「は、はい。奥におりますが、その、申し訳ありませんがお名前を教えていただきたいのです」
「おお、まだ名前も言うてなかったか。私は穀蔵院善之介言うもんや。秘中屋さんには穀蔵院が来た言うたらわかるはずや」
 穀蔵院。その名前は咲にとって特別なものだった。いわば勘九郎と自分の縁結びをしてくれた人のようなものだからだ。
 表面は温和な紳士に見える人があんなものを使うのだろうか。
 人は見かけによらぬものだということを咲は改めて学んだ。
「それではすぐに呼んでまいります。少々お待ち下さい」
 丁寧に頭を下げると、咲は店の奥に消えていった。
 しばらくして、勘九郎が咲を従えて現れる。
「これはお久しぶりです穀蔵院さん」
「いやいや、こちらこそ。江戸、いや東京に来るついでに前のお礼をと思たもんやさかい。前回はこっちが言うた期限よりもえろう早うに届けてくれはって」
 勘九郎が眉をひそめた。
「なんですって?」
「せやから、約束の日よりもずいぶんと早うにあの三本届けてくれたお礼を」
「あれは穀蔵院さんが早くにと言われたのでしょう?」
「は? 私はそんなん言うてまへんで」
 咲と勘九郎は妙な雲行きに顔を見合わせた。
「どういうことです」
「あれ? なんやおかしいな。前のやつは勘九郎はんの興がのって約束のだいぶ前にできたさかい、お渡ししますて聞いたんやが」
「誰にです?」
「喜兵衛はんに」
「喜兵衛に!? じゃあ早くしてくれという催促は?」
「なんですのそれ?」
「ああ……喜兵衛にやられた……」
 勘九郎が情けない声を上げた。
 おそらくかわいい部下の恋心を知った喜兵衛が勘九郎もまんざらではなさそうなのを察して一芝居うったのだろう。
 ありもしない要求を持ち出して、咲と勘九郎の仲にきっかけをつくったのだ。
 あのときは気が動転してそこまで頭が回らなかったが、よくよく考えてみれば、喜兵衛なら相手がいくら上得意とはいえ無茶な要求も上手にかわすだろうし、女もなんとかできただろう。
 それを咲しかいないと勘九郎に思い込ませて、見事にだましたのだ。
 咲を見ると、彼女も喜兵衛のたくらみを今知ったのだろう。複雑な表情をしている。
 勘九郎の視線に気づくと、咲は申し訳なさそうに頭をさげ、少しはにかみながら微笑んだ。
 可愛らしい笑顔を見ているとしだいに勘九郎はこう思えてきた。
 喜兵衛の思惑通りなのが少し悔しいが、結果がよかったのだからかまわないではないかと。
 そうして、傍らに立つ咲の手をそっと握る。
 咲もそれをおずおずと握り返した。
「なにがどないなってんのや?」
 事情のわからない穀蔵院が間の抜けた声を出した。

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