翌日、香織はけがによるものであろう発熱で学校を休んだ。
 それを吉村は己の失言のこともあり、たいへん気をもんだが、結局香織は一日休んだだけでその次の日からは普通に登校してきた。
 しばらくの間、空手部の活動中、吉村は気まずい思いをしていたが、香織の方はそんなことはなかったかのように、今までどおりに接してきた。
 
「あんまり気にしてないみたいで良かったなぁ」
 自宅のベットに寝転がりながらぼんやりとテレビを見ながら吉村は呟いた。
 香織は敗戦後、空手部にくると今まで以上に熱心に練習していた。その姿勢は他の部員にも広がっていき、部員達はそれぞれの目標に向かって、香織を見習って充実したクラブ活動をおこなっていた。
「……あ」
 カバンをあさっていた吉村が間の抜けた声を出した。
「しまった。スケッチブック学校に忘れた」
 時計に目をやると、九時。明日でもよいかと考えたが、あいにくと明日は土曜日で学校は休みである。週末にあのスケッチブックがないのは痛い。今から家を出れば、なんとか学校が閉まる前につく。悩んだ末に吉村は学校に向かうことにした。

「ここでいいよな。すぐ戻るし」
 一人で言い訳しながら、吉村は下駄箱のすぐ前に自転車を止めた。
 言葉どおりに、五分ほどで吉村はスケッチブックをわきに抱えて教室から戻ってきた。
「ん?」
 校庭の端にある道場に明りがついている。こんな時間に自分以外に誰かが学校にいるとは。いつもの吉村なら見まわりの人だろう、そう思って帰ってしまうはずなのに、なぜか、誰がいるのだろう。そんなふうに気になってしまった。
 自転車で無人のグラウンドを横切って道場に向かう。
 静かに自転車を止めると道場の扉を少しだけ開き、中を覗いた。
 夕方までは大勢の人間がいたそこは、今は一人、香織がいるだけだった。
 照明がこうこうと照らすそこは、畳の上にぽつんと一つ、影が落ちているせいで、誰もいないよりも寂しい世界に見えた。
 覗き見をしている吉村にはまったく気付かずに、香織はえんえんと空手の型をくりかえしている。
 しなやかに体が動き、拳が、脚が、素早く繰り出される。そのたびに、きらきらと宝石のように汗が飛び散った。
 静かな道場に、畳を踏みしめる音と、技が空を切る音が響く。
 吉村がその華麗な体捌きに見惚れていると、香織は道場の端に吊るしてあるサンドバックのひとつに向かっていった。
 その表情を見る限り、もう限界だろうに、香織は休むことなくサンドバックを叩き始める。
 すぐさま鋭い打撃音が間断無く吉村の耳に飛び込んできた。
 みるみるうちに香織の足元の畳に汗が溜まっていく。
 それまでぼんやりしていた吉村は、ようやく自分の手にしているものがなにか思い出した様子で、スケッチブックを開くと、中に挟まっていた鉛筆で香織の練習風景を猛烈な勢いで描き始めた。
 それから、どれくらいの時間が経っただろうか。吉村は十二枚目のラフスケッチを終えたとき、ようやく異常に気付いた。
 ちょっと待てよ。僕がスケッチ一枚に五、六分かかるとして……一枚目を描き始めてから……もう一時間以上経ってるじゃないか!
 まてよ、最初の様子だとクラブが終わってからもずっと一人で残ってたと考えるほうが……七時前に終わったから、そうすると……四時間!?
「い、急いで止めさせないと!」
 手にしていたスケッチブックを放り出すと、吉村は靴も脱がずに道場に飛び出した。
「北条さんっ! か、体壊すよ、休まないと!」
 喚き叫ぶ吉村の声が届かないのだろうか。異常とも言える集中力で香織は体を動かし続ける。
 近づいてみると、今まで気付かなかったが、香織の手を守っているグローブのすきまから赤いものが流れ出している。
「ほ……北条さん」
 やむを得ず、吉村は強引に香織の体を抑えにかかった。しかし、香織は制止を振りきって無理矢理に動こうとする。そのうえ畳に水溜りができるほど汗をかいているせいで、ずるずる滑って上手くいかない。
「だめだって! なんでこんなことを!」
 悲しいかな、男と女とはいえ力は香織のほうが上だ。吉村は覚悟を決めて、香織を押し倒そうとした。なかば倒れこむように体重を香織に預ける。
 それはあっさり成功した。
 もう限界を越えていたのだろう。簡単にバランスを崩すと香織はふらりと畳の上に倒れ伏した。
「だ、大丈夫、北条さん?」
 立ちあがった吉村が声をかけるが香織はピクリとも動かない。どうやら気を失ってしまっているようだ。
 おろおろと視線をさまよわせた吉村は、道場のすみにあった誰かのタオルを見つけた。誰のものか、使用済みかどうかもわからないが、この際文句は言えない。
「タオル濡らして、あと……水だ」
 吉村はこれまでの人生で一番機敏に動いた。タオルを引っ掴むと、道場の外へ飛び出す。
 タオルを洗面所で濡らし、自販機でスポーツ飲料を買うと、再び、靴も脱がずに道場に飛びこんだ。
 ぐったりとしたままの香織に駆け寄ると、汗に濡れた顔を冷たいタオルで拭ってやる。
「え、っと、こういうときは、あ! 救急車呼ばないと、なんで気付かなかったんだ」
 ジーンズのポケットから携帯電話を取り出すと、ボタンを押そうとした。
「そ……そんなの、呼ばなくて……いいから」
 いまだに起きあがってはいないものの、顔だけを動かして香織が吉村の行動を止めた。
「北条さん! よかった。でも救急車読んだほうが……。僕もう、どうしようかと思って。」
 香織の気がついた安心からか、支離滅裂になりながらも、吉村がほっとした表情を見せた。
「……大丈夫。ちょっと、たぶん、たんに疲れただけだと思う」
 つらそうに話す香織に肩を貸して、香織を立ちあがらせると、道場の壁にもたれられるように場所を移動する。
 ゆっくりと香織を座らせると、吉村はあせりながら先ほど買ってきたスポーツドリンクを差し出した。
「こ、これ飲んで」
「ありがとう……」
 素直に受け取った香織だったが、指に力が入らないのか、缶のフタを開けることができずに悪戦苦闘している。
「あ、気がつかなくてごめん」
 香織にかわって吉村が缶をあけ、再度缶を香織に渡す。
 気まずい沈黙のなか、香織がスポーツドリンクを飲む音だけが切れ切れに聞こえる。
 吉村がおもむろに立ちあがった。
「靴はきっぱなしだった。ちょっと脱いでくる。そうだ、ついでにもう一本飲む物買ってくるよ。それだけじゃ足りないだろうし」
 いろいろと理由をつけてみたものの、実際のところは沈黙に耐えかねてその場を離れたかった、というのが吉村の正直な気持ちだった。
 先ほどとは違い、ゆっくりと自動販売機に向かう。


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