「やっぱり、試合に負けたからかな。そしたら僕の言葉もちょっとは影響してるかもなぁ」
 あんなふうに体を痛めつける理由が他には見当たらず、吉村は深い溜息をついた。
「もしかして僕と北条さん相性悪いのかなぁ? しょっちゅう気まずいし。もしそうだったらすごいへこむんだけど……」
 気がつくと自販機の前にいた。香織のためにスポーツドリンクを、自分のぶんとしてコーラを買い、ふらふらと道場に戻る。
 ぽつんと道場の片隅に座っている香織は、今にも消えて無くなりそうに見えた。
「あ、これここに置いとくから」
「……うん」
 自分も腰を下ろし、吉村もコーラを飲みはじめる。炭酸の弾ける音がこんなにも大きく聞こえることがあるとは想像もしなかった。
 吉村にとって、まさに針山の上にいるような心地で十分が過ぎたころ、ようやく香織が声をかけてきた。
「なんでこんな時間に学校にいたの」
 それはこっちのセリフだよ、と思いながらも吉村が答える。
「スケッチブック忘れて、それ取りに来たんだ」
「こんな時間に? 美術の課題でなんかあったっけ」
「絵、描くの好きなんだ。だから週末にないと困るから」
「ふぅん」
「あ、スケッチブック! さっき放り出したままだった」
 ばたばたとあわただしく道場の入り口に向かうと、すぐに吉村が帰ってきた。もちろん手にはスケッチブックを持っている。
「さっき、慌てちゃって」
「なんで空手部に入ったの?」
「え?」
「絵描くの好きなんだったら美術部に入ればよかったのに」
「いや、一応それにはわけがあって」
「どんな?」
「その、少しは北条さんも関係あるって言うか、その」
「あたしに?」
「覚えてないかな。まぁ仕方ないよね」
 吉村が少し悲しそうな顔を、香織が怪訝な顔をした。
「まだ入学したての頃、一回モデルになってくれないかって頼んだことがあるんだけど……」
「うそ!? そんなことあった?」
「ほんと一言、二言程度だから覚えてなくて当たり前だよ。僕は美術部に入るって決めてたんだけど、友達に付き合って色んなクラブを見てまわってたときに、組手をしてる北条さんを見て、一瞬でこの人を描きたいって思って、組手が終わってすぐにモデルになってもらえませんかって頼んだんだ」
「ごめん、全然覚えてない」
「それでそのときに、あたしより強かったらいいよって言われたんだよ。だから空手部に入ったんだ」
「そうなんだ……じゃあ別に空手が好きなわけじゃないんだ」
 感情がこもっていないその言葉は、まるで吉村を刺すようだった。
 慌てた吉村が両手を振って弁解する。
「そっそんなことないよ。初めはそんな理由だけど今は空手も好きだし。北条さんより強くはなれそうにないけど。それよりも、あんなふうに無茶しないほうがいいよ」
「無茶?」
「あんなふうに練習っていうか、体痛めつけるみたいなことは」
「負けたんだから前よりもっと練習するのは当たり前でしょ!」
 突然、香織が声を荒げた。
 それに気圧されながらも、幾分小さくなった声で吉村が反論する。
「でも、あんなのは練習なんかじゃないよ。その、負けて悔しいのはわかるけどもっと、他のやり方があると思うし」
「どんな!?」
「それは……、でもあんなのは間違ってるよ。疲れてるみたいだし、気分転換でもしたほうが」
「うるさいっ!」
 香織は吉村を怒鳴りつけた。
「あんたみたいに空手も好きなんてのんきなこと言ってられるような人間とは違うのよ!」
「北条さん……」
「あんたと違ってあたしは空手の他にはなにも持ってないんだ! 気分転換なんて気安く言うなっ!」
 香織が頭を抱えて喚き叫ぶ。
「ずっと……ずっと、空手しかしてないあたしに、気晴らしの仕方なんかわかんないんだよっ! 気分転換なんて、そんなこと急に言われたってどうやって過ごせばいいかなんて……。休みだって空手の練習して! 空手以外のことなんて全然しなくて! 空手だけがあたしの全部で! 他になにも知らなくて! それなのに勝てなくて! 最初は楽しかったのに、今はもう楽しくなんかない。つらいだけなのに、いまさら辞めることもできなくて……もう……疲れた」
 最後の言葉を搾り出すように言うと、香織の目から涙が一粒零れ落ちた。それを合図にしたようにぼろぼろと大粒の雫が堰を切ったように溢れ出す。
 棟を締めつけられるような嗚咽を耳にしても、女性が泣く場面などに免疫のない吉村はただうろたえることしかできない。
「……ははっ、バカみたい。こんなこと他人に言ってもしょうがないのに」
 泣きながら、香織は笑った。それは見る者の心を締めつけるような自嘲の笑みだった。
 渇いた笑いを漏らした後は、一転して抜け殻のようなうつろな表情になってしまった。
 いつもの力溢れる瞳は輝きを失い、ガラス玉のように見える。
 様々な感情を爆発させすぎて、エネルギーを失ってしまったのだろう。
 吉村は自分にできることはないかと、頭をフル回転させ、香織をなんとかなぐさめようと心だけが暴走した結果、あらぬことを口走った。
「だ、だったら……そ、その、ぼ、僕の絵のモデルに、なってください……とかは……だめ、かな」
「モ……デル?」
 頬を濡らしながら、きょとんとした顔で香織が呟いた。
 勢いで言ってしまったことになんとか収拾をつけようと、言葉を続ける吉村。
「その、いやなら、い、いいんだけど。できたらモデルになって欲しいんだ。気分転換になるかどうかはわからないけど」
「あたしが?」
「そう! 絶対にいい絵を描くから! それに普通なら絶対にやらないことをやるんだから、気分転換になる……ならないかな」
 最後のほうは自信なさげに声が小さくなったものの、それに反して吉村の目はらんらんと輝いている。
「あっ、あたしなんかがそんなモデルなんて! そんなの困るっ!」
 いやいやをするように首を振り、断固拒否の構えを見せる香織。
 しかしここまできてしまった以上、吉村もひくにひけない。
「大丈夫! 北条さんなら最高のモデルになれる、こんなに綺麗な人を僕は他に知らない」
 身を乗り出してきた吉村の勢いに押されながらも、香織はさらに断る理由を並べたてようとする。
 どうやら、あまりに突拍子もない頼みごとに混乱して、それを回避するのに必死で自分の悩みが一時的に頭から消えてしまったようだ。
「だめっ、無理だって、あたしなんか全然綺麗じゃないし、女っぽくもないし。ほら、これ、こんなふうに拳ダコのある女なんてモデルになんてなれないって」
 香織が拳を突き出しアピールしてみせる。
「僕は北条さんのことを女らしくないなんて思わないし、拳ダコだって魅力のひとつだと思う。だから、そんなふうに自分のことを卑下するのは良くないよ。自分の魅力をわかってないんだったらモデルになることでそれに気付くと思う!」
 目の中で炎が燃え盛っているのではないかというほどに、情熱をたぎらせて吉村がかきくどく。
「でも……、そんなことしたことないし」


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