言葉だけでは足りないと思ったのか、もう一押しだと思ったのか、吉村は傍らにおいてあったスケッチブックを広げた。
「ほら! これ見てよ」
 そこには数枚の風景画と、数多くの人物画が描かれていた。さらにいえば、人物のほとんどは香織だった。
 さきほどの香織が倒れる直前の練習風景から、試合中の香織、組み手をしている香織、タオルで汗を拭っている香織、制服姿の香織、色々な香織がそこにいた。
 香織は戸惑ったようにそのスケッチの数々を眺める。
「……これ、あたし?」
「そう! 北条さん、許可取らないで描いたことはあやまるけど、描かずにはいられなかったんだ! だからちゃんと僕に北条さんを描かせて欲しい!」
「あたしこんなに綺麗なんかじゃない」
「僕はありのままを描いただけだ」
「嘘つかないでっ! ほら顔だってまだこんなに腫れてるし」
「腫れならひくの待つから、今度の土曜日にならもう元に戻ってるよ」
「で、でも、あたしその……む、胸ないからヌードなんてできないっ!」
 香織が絶叫する。
 一拍おいて吉村が気の抜けた声をした。
「……ヌード?」
 香織の真っ赤に染まった顔をぽかんとした顔で吉村が見つめる。
「モデルって脱ぐんだろ?」
 素人だからとはいえ、あまりな誤解を吉村は優しく解きほぐした。
「全部の女性画がヌードなわけじゃないでしょ? 僕が北条さんに頼むのは服を着たままのモデル。ヌードはヌードで描きたいけどそんなの頼めないって」
 安心した香織の様子を吉村は見逃さなかった。すかさず追撃をかける。
「さっきの言葉はヌードじゃなかったら引きうけてもらえるってことだよね」
「ち、ちがう」
「いや、違わないよ。今度の土曜日一時に学校の門のところで待ってるから、絶対にきてね」
「え、でも……」
「そうか! 練習ある?」
「土曜日は午前中で終わるけど……」
「だったらちょうどよかった」
 有無を言わさず約束をさせると、吉村は香織を家まで送っていくと言いだした。
 断ろうとする香織を、心配だからと言って、強引に自転車のうしろに乗せると、月明りのもとグラウンドをふらふらと進んでいく。
 すると、校門が閉まっていた。当然である。とっくに深夜零時を過ぎているのだから。
 守衛にこんな時間まで学内にいた理由を勘繰られながらも、二人は何度も頭を下げて門を開けてもらった。
「家どこらへんなの?」
「家って言うか、寮に住んでる。知らない? うちの特待生が入ってる清流寮」
「あー、あそこか。じゃあ北条さん一人暮しなんだ」
「他に生徒がいっぱいいるから一人ってわけじゃないけど。相部屋だし」
 清流寮と彫られたいかめしい石碑が鎮座ましましている寮の前で、香織が送ってくれた礼を言う。
「その……送ってくれてありがとう」
「いいよ、僕がむりやり送ったんだし。あ! 北条さんの家がわかったんだから僕土曜日迎えにくるよ」
「え!?」
「それじゃあ、また明日」
 戸惑う香織を残して、吉村は上機嫌で去っていった。
「ど、どうしよう……」

 翌週の香織は、周囲から心配されるほどにおかしかった。
 空手についての悩みではない。
 そのことについては、本質的な解決ではないのだが、モデル依頼をされたという悩みにより、当面の問題として意識されなくなったという、怪我の功名があった。
 ぼんやりとしていることが多かったり、急に困り出したり。かと思えば少し嬉しそうだったり。
 その理由については香織自身が一番よくわかっている。いままで空手一筋だった自分を女扱い、それもモデルになって欲しい、などという最上級の扱いをされたからだ。
 それが嬉しくて浮ついた気分になったり、自分にそんなことができるのだろうかという不安から困ってみたりしてしまう。
 こんなに自分の感情がふらふらするとは思わなかった。
 空手のことだけを考えていたときはこんなふうにはならなかった。
 結局、何度もモデルを断ろうとしたのに最後の一歩が踏み出せないで、モデルの件について吉村と話すこともできず、新しい感情も御しきれないまま、一週間は瞬く間に過ぎてしまった。


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