約束の土曜日。練習を終えて寮に帰ってきた香織は、ひどく落ち着かない様子でそわそわしている。
 見かねた同室の聡子が声をかけた。
「ちょっと、香織。なんか最近落ち着かない感じだけどなんかあったの?」
「な、なにもない」
「なんでそんなばればれの嘘つくの。最近のあんたなんかピリピリしてたけど、なんかここんとこ、それがなくなってるもん」
「それよりどっかおかしくないかな?」
 聡子の言葉を無視して、しきりに自分の服装を気にする香織だったが、ジーンズにティーシャツという格好ではおかしくなりようがない。
「別におかしくないんじゃないの。ふつー。いつものジャージ姿よりはまとも」
 気のない同居人の返事に怒った様子もなく、香織はせかせかと鏡で髪型をチェックし始めた。
 こちらもポニーテールにまとめただけで、ワックスでいじったりもしていないので、これまたおかしくなりようがないのだが、香織は真剣な表情で鏡を覗きこんでいる。
 これまでにない香織の態度に聡子は一つの結論に思い至った。
「わかった! カレシだ! そうでしょ。今日デートなんだ」
 香織が慌てて聡子に向き直る。
「ちっ、違う! そんなんじゃないから!」
 聡子はこの同居人がこうまで取り乱すのを初めて見た気がした。
「おかーさんは嬉しいよ。空手にしか興味がなかったあの子がこんなに立派になって」
 聡子はわざとらしく目尻を拭うふりをしてみせる。
「だから、違うって!」
「相手は誰なんだろうねぇ。お父さん、天国で娘の恋人を見極めておくれ」
 天を仰ぎ、よよよ。と無き崩れる聡子。
「聡子っ!」
 妙な小芝居に香織がキレた。
 ものすごい目で自分を睨んでいる香織を見て、聡子はやりすぎを後悔したがもう遅い。
 聡子がさらなる怒声を覚悟したところへノックの音がした。
「北条さーん。なんか吉村って人が来てるよー」
 間延びした声が室内の二人の気を抜けさせる。隣室の陸上部員だった。
「は、はひっ! すぐ行くからっ」
 香織は裏返った声で返事をすると、どたばたと部屋を動き回った。
 もう一度格好をチェックすると、制汗剤のスプレーを手に取る。香水でないところが香織らしいといえば香織らしい。
「えっ! 吉村って空手部の? そうなんだぁ、以外かもしれない。香織って男は自分より強くないとダメっとか思ってそうだと思ってたけどそうでもないんだ。っていうか吉村って空手部員っぽくないよね、どっちかって言うと可愛い系だよね? そっちがいいの?」
 まったく懲りた様子のない聡子が好き勝手なことを言う。
「聡子っ!」
「私の相手してていいのぉ? 愛しい吉村君が待ってるよー」
 にやにやと聡子が人の悪い笑みを浮かべた。
「そんなんじゃないっ!」
 勝ち目がないのを悟ったのか、香織はむなしい抵抗の言葉を口にすると部屋を飛び出した。
「ごめん、待たせて」
 聡子のせいで妙に意識してしまい、香織はなぜか吉村の目を見ることができない。
 一方の吉村も、制服と胴着以外の姿の香織を見るのは初めてのため、緊張してどぎまぎしてしまう。
「ぜ、ぜんぜん待ってないよ。僕の家はこっからだとちょっと遠いけど、自転車だとそんなにかからないと思う」
「だったら、門の所で待ってて。自転車取ってくるから」
 香織が元気良く駆け出していく。
「え? あ、うん、わかった……そうだよなぁ、自分の自転車ぐらい持ってるよなぁ」
 密かに、ここに香織を送って来たときのように、再び自分の自転車の後ろに香織を乗せることができるのではないかと期待していた吉村は、とぼとぼと門に向かっていった。
 自転車に乗ってやって来た香織は、なぜか吉村が少しがっかりしているのに気付いたが、さっぱり理由がわからずに、首をかしげた。

「うわっ、なんか美術室の匂いがする……」
 吉村の部屋のドアを開けた途端に、絵の具の匂いが香織の鼻を刺激した。
「絵の具の匂いだよ」
 香織の背後で吉村が笑った。
「ふぅん……。以外に部屋汚いんだな」
 絵の具や、筆、スケッチブックに美術書、カンバスなどが雑然と部屋を占領している様子に驚きながら、香織は部屋に足を踏み入れた。
「そうかな、こんなものだと思うけど。あ、そこの椅子に座って」
 ばつの悪そうな顔で吉村が答える。
 言われたとおりに香織が、椅子に腰を降ろすと、吉村はその正面にある椅子に腰掛け、早速スケッチブックを開いた。
「え! もうはじめるのか? あたしこんな格好でいいの?」
 自信の飾り気の無い格好を見なおして、香織が慌てる。
「とりあえず、軽く腕ならしにスケッチするだけだから。それに格好はそれで充分だよ。気になるなら後で姉さんの服何着か借りてくるよ」
「お姉さんいるんだ」
「うん。じゃあ、できるだけ動かないでね」
 美術家モードに入ってしまったのか、吉村の目つきが空手をやっているときよりも鋭くなった。
 その真剣な表情に圧倒され、香織は結局それ以上なにも言えなくなってしまった。
 鉛筆が紙を走る音だけが狭い部屋に響く。
 最初のうちこそモデルらしくしようと頑張っていた香織だが、元来が活動的な性格のため、じっとしているのがしだいにつらくなってきた。
 それを紛らわすために、顔は動かさずに目だけで周囲を見まわしてみる。
 適当に積み上げられた本の背表紙から、いくつかタイトルを伺うことができた。
 近代美術の旗手。写実主義の技法。色の名前。デッサンの基本。などなど、様々なタイトルがあったが、香織の興味をひくようなものはない。
 視線を流すようにして移動させていくと、ようやく見知った単語の入った本が見つかった。その名もヌードデッサン。
 ぱちぱちと目から火花が出るような気持ちになった香織は、慌てて目線を逸らした。
 すると、途端に黙々と自分を見て手を動かしている吉村のことが気になりだす。服を着ているはずなのに、それをすりぬけて、裸の自分を見られているような気がしだしたのだ。
 そう感じだすと、とたんに落ち着かなくなってきた。吉村の後ろにあるベッドまでなにやら意味ありげに思えてくる。
 今まで、こんなにも他人からの、それも男からの視線を意識したことのなかった香織は戸惑った。
 な、なんかすごく落ち着かない。緊張してんのかなあたし。
 やっぱりモデルなんか引き受けるんじゃなかった。
 なんだろう? 見られたところが熱い?
 吉村の視線のせいで、香織の体はしだいに熱を帯びてきた。自分に浴びせられる視線に興奮しだしているのだが、香織にはわからない。ただ、体の奥が熱くなってきたと感じるだけだ。
 時間だけが過ぎていく。すでにスケッチが始まってから二十分は経っていた。
 頭がぼうっとして、なにも考えられなくなってくる。
「ん……はぁ」
 あきらかに疲労から来る吐息などではない、それはとろけるようなあえぎ声だった。


進む
戻る

作品選択へ戻る