吉村がぴたりと手を止めた。じっと香織の様子を窺う。初めと違いなぜか紅潮したほお、息までが熱っぽい。
「北条さん?」
 疲れたのだろうかと声をかけてみるも、香織はまるで反応せずぼうっとしている。
「北条さん」
 もう一度、さっきよりも強い調子で問いかけてみる。
 すると、ゆっくりと香織の視線が動いた。ぼんやりと吉村を見つめていた瞳に光が戻ってくる。
「え? あ、ごめん。ぼーっとしてた。なんだろ。モデルなんかやったことないから緊張したのかな、悪い。」
 吉村はなぜか謝る香織をまともに見ることができない。
「う、うん。初めてだから疲れたんじゃないかな。きゅ、休憩しようか。なんか、適当に持ってくるよ」
 スケッチブックを放り出し、吉村はあわただしく部屋を出て行った。
 ひとり残された香織は立ち上がると、伸びをした。
「なんだったんだろ、あの感じ。すごくどきどきしたけど。」
 自分の体が自分のものではなくなってしまったような、今までにない感覚だった。
 おそるおそる自分の体に触れてみる香織。
 鋭い刺激が胸に触れた指先から伝わってきた。
「ぁん」
 自分の口からでたとは思えないような甘えた声に香織は驚いた。
「なに……今の声」
 うっとりして、気持ちよくて。こんなのは知らない。
 もしかして、これは、聡子が言っていた……感じるってことなのか?
「で、でもなんでこんなときに。こういうのってエッチな気持ちになったときになるんじゃないのか」
 その手の話題からは逃げるようにして生活してきた香織は、初めての体験に混乱しきっていた。
「とりあえず、紅茶とクッキー持ってきたよ」
 紅茶でのどを潤していると、本棚の『ヌードデッサン』が目に入った。
「なぁ、やっぱりヌードって描いてみたいものなのか?」
 言ってしまってから、香織は自分の発言の大胆さに気づいた。
 聞きようによっては、まるでヌードになってもいいような言い方である。
 現に吉村は含んでいた紅茶を噴き出しかけてむせている。
「ごほっ、こへっ。っ、えっと……」
 いきなりの問いに、さすがに吉村も答えづらそうに口をもごもごさせている。
「いや、その、別に深い意味があるわけじゃなくて……」
 あわてて言いつくろうのだが、顔を真っ赤にしてしまっているのであまり効果はない。
「そ、そう! 本棚にヌードの本があるから、なんとなく気になっただけで……」
「それはまぁ僕だって描いたことはあるし、これからも描きたいけど。別にそれだけってわけでもないし」
「描いたことあるのか!」
 意外な返事に香織は驚いた。そして同時に、いったいどんな相手の裸を見たのかという、好奇心がわいてくる。しかし、その興味の中に、ヌードモデルへの嫉妬が含まれていることに香織は気づいていない。
「あるよ。そういうヌードモデルを相手にしたデッサンの会とか、そういうのが色々あるんだ。男のモデルさんの場合はたいしたことないんだけど、女のモデルさんが相手のときは裸だけが目当ての人が時々いて、それがいやで最近はもう行ってないけどね」
 吉村の言葉はほとんど香織の耳には届いていなかった。あるよ、の三文字だけがぐるぐると香織の頭の中で渦巻いていたからだ。
 お、女の人の裸見たことあるんだったら……私の裸見てどう思うんだろう。
 比べられたら、比べられたらどうしよう。どうしよう、困る、いやだ。
 やっぱり性格だけじゃなくて体まで可愛げがないと思われるのか。
 こんなに筋肉のついた体では女として見られないかもしれない。
 女らしくないということを自分でもわかっているせいで、どんどん気持ちが沈んでいってしまう。
 もはや、ヌードを描いてもらうことが前提の思考になっているのに香織は気づかずにいる。
 そんな様子を見て、吉村は香織が脱がされると思って困っていると勘違いした。
「あの……北条さん? 僕はその、北条さんにヌードになってくれとか言うつもりはないから安心してくれていいよ」
 純粋に安心させるつもりの言葉だったのだが、空手に疲れ、かといっていまさら普通の女の子のような生活もできない香織には、そう受け取ることはできなかった。
 香織の頭の中でなにかが大きくはじけた。
「気使ってくれなくてもいい。ようするに、あたしみたいな女っぽくないやつの裸なんか興味ないってことでしょ」
 吐き捨てるように言って、香織は立ち上がった。
「気分転換にはなったからそのお礼だけは言っとく。それじゃあ」
 慌てたのは吉村である。わけのわからないうちに、ようやくモデルとして口説き落としたはずの香織が帰ろうとしているのだ。
「なんで!? なんか気に障ることいった?」
「別になんでもない。もう何枚か描いたんだからモデルになる約束は果たしたでしょ」
「北条さんのヌード描きたくないなんて一言も言ってない! 僕は、できることなら、北条さんのヌード描きたい! けど、そんなこと普通は頼めないじゃないか」
「本当に描く気があるなら今すぐ描いてもらおうじゃないか!」
「いいよ! 描く! じゃあさっさと裸になってよ」
 さすがに一瞬間があいたものの、香織は意地になっていたので、いまさら後に引くことなどできずに、ゆっくりと服を脱いでゆく。シャツにズボン、勢いよく脱ぐと下着姿になる。大きく息をついて色気のないスポーツブラを脱ぐと、さすがに胸を隠すようにしながらショーツを脱ぐ。
 急展開についていけずに、混乱したままの吉村はその様子をまばたきもせずに見つめている。
 なんでこんなことになってるんだ?
 僕の目の前で北条さんがは、裸になってる?
「このあとどうすればいいの」
 香織に尋ねられて吉村はようやく現実に帰ってきた。
「え、えと……とりあえず、構えてもらえるかな。あ! いや、やっぱり適当に立って。も、もちろんその胸とかは隠してくれてもいいから」
 しかし、香織は胸どころか、股間すら隠そうとせずに最初に言われたように、空手の構えをとって見せた。
 自分で体を隠すのはなんだか負けを認めたようでいやだったのだ。
 腰を落とし、基本の型をなぞる。ポニーテールが上下に揺れた。
「これでいい?」
「いい……」
 香織の体は素晴らしかった。飾りのためではなく、戦いのための筋肉はまさに美しい鎧そのものだった。張り詰めたそれは、静止していてもなお躍動感を感じさせる。
 それでいて、小ぶりな胸のふくらみと、ふくよかなお尻に象徴されるように、女性としての美しさを失っておらず、うっすらとのった脂肪が柔らかなラインを形づくっており、男なら誰でもが自分のものにしたいと乞い願うような体だった。
 練習中にできた日焼けのあとが、最小限の白いままの肌、衣服に覆われていたのであろう部分、を強調し、素晴らしいコントラストをつくっている。
 ところどころにある痣や、傷跡も香織の凛とした雰囲気をより高めるためのスパイスになりはしても、その価値を損なうものではない。
 そして、構えのために惜しげもなく開かれた足のせいで、薄桃色の清楚な秘部とそれを隠し切れずにいる淡いしげみ。
 ごくりと生唾を飲み込むと、吉村はスケッチブックと鉛筆を手に取った。
 だが、書き始める前にたっぷり三分使って頭の中から邪念を追い払わなければならなかった。このとき、吉村はこれまでの十数年で使った以上の理性を使った。


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