ん?
 ちょ、ちょっ、ちょっと待て! 今あたしでかい声でとんでもないこと言わなかったか?
 まずい。あたしが桐野と手をつなぎたがってたことがばれたら、またあいつにからかわれるネタになってしまう。
 あたしは手遅れとはわかっていても、猛スピードで口を押さえた。
 それから、こっそりと横目で桐野を見た。
 桐野はあたしと目があうとさわやかに笑ってくれた。
 危ないとこだった。あの感じだと、なんとか聞こえなかったらしいな。
 そこで、あたしは足の裏の違和感に気づいた。目を落とすと、バカの顔が靴の下にある。
 のんきに気絶している顔を見ると、また腹が立ってくるが、あんまり桐野の前で暴力をふるって嫌われるとまずいから我慢しよう。
「これで勘弁してやる」
 あたしは最後に一発だけバカの頭を踏みつけると桐野のほうに向かった。
 桐野の顔はちょっとだけ青ざめているように見えた。きっとあたしのことを心配してくれたんだ。
 桐野はなんだかんだ言っても優しいからな。
 けど、あんまり心配かけるとまずいから、ちっとフォローしとくか。
「……前も言ったかもしれないけど、いつもこんなことしてるわけじゃないからな」
「わかってる。それよりも喜多さん」
 なんとか話はそらせたみたいだな。
「なんだよ?」
「鼻血でてる」
 言われて、あたしは鼻の下に手を伸ばした。
 すると、赤いものが指先にべっとりついている。
 やべぇー! 恥ずいにもほどがあるだろ。間抜けな顔になってねぇだろうな。
 と、とにかく早く拭かないと。
 あたしは慌てて袖口で鼻をこすった。
「ちょっ、ほら、そんなので拭かないで。ハンカチ貸してやるから」
「おう。ありがと。あ、あんま見んなよ。間抜けな顔になってんだから」
「名誉の負傷ってやつだねえ。ちょっとよく見せて……あんまりひどいことにはなってなさそうだけど、学校に着いたら保健室に行こう」
「いいよ、これぐらい」
「だめ。これは御主人様の命令だ」
 あぁー。桐野があたしの心配してくれてるぞ。
 幸せだー。
 けど、このぐらいで浮かれると思われたら安い女に見られるからな。ビッとした態度でいないと。
「わかったよ。行けばいいんだろ、行けば」
 わざとぶっきらぼうに言ってやる。
 すると、桐野は偉そうにうなずいた。
「わかればよろしい。あとでご褒美をあげよう」
「ごっ、ご褒美」
 その言葉を聴いた瞬間体中にびりびりと電気が走った。
 な、なにされるんだろ、あたし……。
 ち、違う! 嬉しくなんかないんだ。
 けど、体がかってにもじもじと動いてしまう。
 あたしの体はあたしのものじゃなくて、桐野のものになってしまったみたいだ。
「それとね、ちょっとこっち来て」
「お、おう」
 今からなにかされんじゃねぇだろうな。
 まさかとは思うけど、一応用心しながら、あたしは桐野に近づいた。
 あたしに顔を寄せると桐野が小さく口を開いた。息が少しくすぐったい。
「あのときはおちんちんだってなかなか言ってくれないのに、喧嘩のときはフニャチンだなんだって大きな声で言えるんだな」
 ――っ!
「ばっ、てめ! 声が、い、いきなりなに言いだすんだよバカっ!」
 あたしは即座に桐野の口を力ずくでふさいだ。
 これ以上とんでもないことを言わせないためだ。
 すばやく辺りを見回したが、なんだか皆がこちらを見ている気がする。
 まさか聞こえたわけじゃねぇとは思うけど。
 あたしがしばらく様子を窺っていると、周りのやつらがぱらぱらと歩き出した。
 大丈夫みたいだ。
 しかし、桐野にはガツンと言わないと。
「きゅ、急にとんでもないこと口走るな!」
 慌てて桐野の口を両手でふさぐ。
「ふがむんが……」
「黙れっ」
 あ、危ない。またなにか言われるところだった。
 しばらくはこのままこいつの口を押さえてないと。
 桐野があたしの手をどかそうとしてきたがダメだ。まだ周りに何人か人がいる。
 あたしはさらに手に力を入れた。
 ところが、桐野のほうは指に力を入れる様子がない。
 あたしがいぶかしんで様子を見ていると、桐野の指が動いた。
 手を離すものかと思っていると、すっと手の甲を撫でられる。
「んひっ!」
 なんだか妙な感じの触り方だったので、あたしは思わず飛びのいてしまった。
 文句を言おうとしたが、なんだかぞくぞくして口がうまく動かない。
「な、な、な……」
「はぁ、苦しかった」
 桐野のほうは暢気に口元を押さえている。
「苦しかったじゃねぇだろボケっ! いきなりなにするんだ」
「手を触っただけだ」
 た、確かにその通りだけど……なんか違う気がする。
「……」
「でもあれだけなのにあんな声だして、喜多さんはやっぱり敏感だなぁ」
「きっ、き……」
「き? なに?」
「桐野っ!」
 考えるより先に体が動いた。
 あたしは桐野の口を再度押さえようと飛びかかろうとした。
 ちょうどその一呼吸前に、うまいタイミングで桐野が口を挟みやがった。
「喜多さん、急がないと遅刻するよ。結構時間食ったから。ほら」
 これだ。ちくしょう。くやしいが勝てる気がしない。
 あたしの気持ち気づいているのか、いないのか。桐野はこっちをにこにこ見ている。
 と、あたしは桐野が手を差し出しているのに気づいた。
 つい、その手をぼけっとバカみたいに見つめてしまった。
 ……嬉しい。
 あぶねぇ! またうっかり許してしまいそうになってたぞ。
 ここはバシッと決めとかねぇとな。
 あたしはぶすっとした不機嫌な顔をつくると、手を差し出してやる。
 あくまで桐野がつなぎたいからつないでやるのだ。
「おう」
 その日の登校はサイコーだった。
 早起きしてたかいがあったってもんだ。
 ただ、はやく手をつないでても緊張しないようにしないとな。
 あたしが緊張してんのが桐野にはバレてないはずだけど、いつまでもこんな感じじゃそのうちバレちまうかんな。
 学校に着くのがこんなに早い日は初めてだった。
 今までなら歩くのがだるいぐらいなのに。
 正門が見えると、あたしは残念ながら手を離さなくてはいけなかった。
 男と手つないでるとこなんか見られちまったら、どんな噂がたつかわかんねぇしな。
 桐野に迷惑がかかるかもしんねぇし。
 自分から手を離したくせに、桐野の温もりがなくなった瞬間、あたしはごっそりと大事なものがなくなってしまったような気がした。
 そして、その瞬間わかってしまったのだ。
 ああ、あたしはもう桐野なしではいられなくなっちまったんだ。ってことを。

戻る

作品選択へ戻る