冷蔵庫の中を見た喜多の感想は、ひでぇな、というものだった。
 男子高校生が突然一人暮らしに放り込まれたならば、コンビニや外食に頼り、自炊などは夢のまた夢という状態になってしまうのは仕方ないと思う。
 その中では、僕は頑張っているほうだと自負していたのだが。
 なにしろ一週間に一度ぐらいは自炊を試みていたのだから。
 とはいえ、きちんと炊事をしている喜多から見ると物足りないのだろう。
「おまえこんなんじゃ栄養足んねぇよ。ちゃんと野菜とかも取ってるか?」
 えらく健康的なヤンキーもいたものだ。
 ぶつぶつ文句は言ったものの、喜多は数少ない冷蔵庫の材料の中からつくる料理を決定したらしい。
 僕なんかからすると、あの材料からなにができるのだろうという気がするのだが。
「エプロンねぇか」
「え、ああ、これ使って」
 キッチンのに置かれていたエプロンを手渡す。
「そんじゃ桐野はご飯炊いてくれ。そんぐらいはできんだろ」
「もちろん。ご飯といえば僕、僕といえばご飯、小豆洗いが小豆を洗うのよりも、僕が米を研ぐほうが好きなんじゃないかってぐらいに……」
「そしたら、米洗って炊飯器にセットしてくれ」
「はい」
 たわごとをあっさり流された今の僕になにができただろう。はい、と返事をする以外に。
 僕がざこざこと米をこぼしながら研いでいると、それとは対照的に喜多がてきぱきと料理をつくっていく。
 正直なところ、どれほどのものかと疑っていたのだが、僕はついさっきの自分に説教をしたくなった。
 最初のうちこそ、調味料の位置などを聞いてきたが、僕が役に立たないとわかると、自分で適当に探し始めた。
 手馴れているのだろう。動きに一切無駄がない。
 野菜を切ったら鍋の様子を見る。それが終わったかと思うと卵をかき混ぜる。にんじんの皮を剥く。次々に行程を処理していく。
 僕はといえばずっと米にかかりきりだ。
 適当なところで炊飯器をセットすると、僕は喜多の後姿をぼんやり眺めた。
「今すぐにでもお嫁さんになれるな」
 ぽそりと呟いた瞬間、どだん、という大きな音がした。
 真っ二つになったジャガイモが宙を舞っている。
「いきなり変なこと言うなっつってんだろーが!」
 包丁を振り回しながら喜多が振り向いた。
 は、刃物はまずい、刃物は。
 プレッシャーが尋常ではない。
 大魔王バーンが光魔の杖を手にしたようなものだ。
「ちょ、とりあえず落ち着いて。な、ほら。鍋の様子も見ないと」
 僕は両手を前に出しながらじりじりと後ずさった。
「刃物もってんだから、ちょっかいかけたら危ないだろっ!」
「いや、別に邪魔をしようとかそんな気はさらさら……ただ思ったことが口にでただけで、いいお嫁さんになるだろうなと、喜多さんの後姿を見てたら……」
「だ・か・ら! そういうことを言うなっつってんだろ! 邪魔するんだったら出てけ! あと三、四十分でできると思うから向こうで待ってろ!」
 自分の家なのに、そんな反論すらできず、僕はすごすごとリビングに向かった。
 背中越しに喜多を見ると、明らかに浮き浮きとした様子で鼻歌を歌っていた。
 喜多の言葉通りだいたい三十分後、僕たちは食卓についていた。
 なんとご飯が炊き上がるより、喜多が料理をつくり終えるほうが早かったというのだからたいしたものだ。
 テーブルにはそんな短い時間でつくられたとは思えないほど立派な料理が並んでいた。
 中華風鳥ささみの枝豆入りあんかけ。チーズとハムのジャガイモはさみ揚げ。にんじんと豆腐のサラダ。卵スープ。最後に僕が研いだご飯。
 僕は感動した。
 一人暮らしをはじめてからというもの、こんなにきちんとした料理が僕の目の前にあったことなどない。
「凄い! 喜多さん凄いな。いや、マジでちょっと感動した。本当にいいお嫁さんに馴れると思うよ。冷蔵庫にあったものでこんなものができるとは、等価交換の法則に反してるんじゃないか?」
「お、おう。もうそんなに言わなくていいからさ、早く食べろよ。冷めるから」
 少し照れながら、僕が感動してまくし立てるのを喜多は嬉しそうに聞いている。
 とりあえず、僕は目の前の料理を平らげることにした。
 自分ではそんなつもりはなかったが、家庭の味というやつに飢えていたのかもしれない。
 素晴らしくおいしい。
 うまい。
 一口ごとに、全米ナンバーワンの絶賛を喜多に浴びせながら、僕は箸を動かした。
 食事も半ばに差し掛かり、落ち着いてくると、いたずら心が湧き上がってきた。
 人間余裕ができるといらないことをしたがるようになる。
「喜多さん、喜多さん」
「呼ばなくても目の前にいるだろ」
 愛想のない返事だが、喜多は笑顔を隠しきれていない。名前を呼ばれるのが嬉しいのだろうか。
 僕は鳥のささみを一切れつまみ上げた。
「はい、喜多さん。あーん」
「ぐっ、ふっ!」
 ちょうどコップに口をつけていた喜多は思い切りむせた。
 なんとかお茶を噴出すのをこらえきると、怒鳴った。
「このボケっ! いきなり変なことすんなっ!」
「変? なにが? これは由緒正しいレクリエーションだよ。はい、口あけて」
 喜多があーん、と言う僕を睨みつける。
「あっ、あたしはそんな恥ずいことしねぇからな!」
「ほら、あーん」
 喜多がなんやかんやと文句をつけるのを無視し続けていると、四回目のあーんで喜多は覚悟を決めたように目を閉じると、五回目のあーんにあわせてゆっくり口を開いた。
 しつこい僕にしぶしぶ付き合ってやってやるんだと言いたげに。
 ぶすっとして、どこか怒ったような表情の喜多。
 しかし、僕は知っている。こういうときの喜多は内心ではものすごく喜んでいるのだ。
 今だ! 僕はほくそ笑んだ。
「なんてな」
 ひょいと箸を動かすと、僕はささみを口に入れた。どこに? もちろん自分の口に。
 もぐもぐと鳥のささみを噛みながら僕は思った。今の和久さんのマネは我ながら会心のできだな、と。
「やぁ、喜多さんの料理はおいしいなぁ。あれ? なにしてるの喜多さん? 口なんかあけて」
 ぷるぷる震えている彼女に、今気づいたように言ってやる。
「……っ、桐野っ!」
 大きな音を立てて喜多の座っていた椅子が後ろに倒れた。
 期待を裏切られた怒りと、からかわれた羞恥で喜多が顔を真っ赤にしている。
「うそ! うそ! うそだよおおーん! 冗談、冗談。悪かった、ちょっとふざけただけだって。次こそは正真正銘本当ににするから。彼女の名前喜多薫。趣味コミック本集め。類人猿ターザンの主演女優はボー・デレク、今夜はビート・イットのパロディ、今夜はイート・イットを歌ったのはアル・ヤンコビック」
 彼女の名前あたりで、怒りがこみ上げてくる嬉しさに取って代ったらしい。
 僕は喜多の口元がわずかに笑みを浮かべたのを見逃さなかった。
「もういい」
「そんなこと言わずに。はい、あーん」
 言いながら、僕はじゃがいものはさみ揚げをつまみあげた。
 さすがに今度はきちんと食べさせた。
 口を開けて、僕に食べさせてもらっている喜多を見て、どこか卑猥なものを感じながらだが。
 そんなふうに僕たちはたわいもないことをしたり、喋ったりしながらご飯を食べた。
 僕が突然一人暮らしをするハメになったことや、喜多の家族のこと、もちろん喜多自身のことも話したし、二人でなにを遊びに行くならどこへ行って、なにをしたいかということも話した。
 そして最後に今度の土曜日に二人で映画に行こうということになった。
見る映画はどうでもいい。二人で行くということが大事なのだ。
 水野晴郎には怒られるかもしれないが。


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