おっと。思考が横にそれた。僕には伝えるべきことがあったんだ。
「鼻血でてる」
 僕が小さな声で教えてあげると、喜多はあわてて制服の袖でそれをぬぐった。耳まで真っ赤になっている。
「ちょっ、ほら、そんなので拭かないで。ハンカチ貸してやるから」
 なんか、普通は逆のような気がするけど。
「おう。ありがと。あ、あんま見んなよ。間抜けな顔になってんだから」
「名誉の負傷ってやつだねえ。ちょっとよく見せて……あんまりひどいことにはなってなさそうだけど、学校に着いたら保健室に行こう」
「いいよ、これぐらい」
「だめ。これは御主人様の命令だ」
「わかったよ。行けばいいんだろ、行けば」
「わかればよろしい。あとでご褒美をあげよう」
「ごっ、ご褒美」
 なにを想像したのか、喜多は奇妙な身振りでじたばたと身悶えた。
「それとね、ちょっとこっち来て」
「お、おう」
 僕の手招きに応じて身を寄せる喜多の耳元でささやく。
「あのときはおちんちんだってなかなか言ってくれないのに、喧嘩のときはフニャチンだなんだって大きな声で言えるんだな」
「ばっ、てめ! 声が、い、いきなりなに言いだすんだよバカっ!」
 羞恥に頬を染めながら、喜多がうろたえにうろたえて僕の口を押さえつけた。
 周りの人間はすわ第二の犠牲者かとざわついたが、きょろきょろと辺りを窺う喜多を見て、そうではないらしいと、僕達への興味を失いそれぞれの目的地へと足を進めだした。
「きゅ、急にとんでもないこと口走るな!」
「ふがむんが……」
「黙れっ」
 このままずっと話せないわけにもいかない。
 かといって、喜多はそうやすやすと手を離してくれないだろう。
 僕は口をふさいでいる彼女の手の甲に指を伸ばした。力はほとんどこめない。まるで愛撫するように優しく撫でさする。
「んひっ!」
 目論見どおり、喜多は情けない声をだしながら弾かれるように飛び退いた。
「な、な、な……」
 驚きのあまり言葉も出ないようだ。
「はぁ、苦しかった」
「苦しかったじゃねぇだろボケっ! いきなりなにするんだ」
「手を触っただけだ」
「……」
「でもあれだけなのにあんな声だして、喜多さんはやっぱり敏感だなぁ」
「きっ、き……」
「き? なに?」
「桐野っ!」
 顔に血を昇らせて怒鳴る喜多さんを見て、僕はこれぐらいにしておくかと考えた。
 僕の視界の下のほうにいる、あの哀れな男のようにはなりたくない。デッドリストに追加される訳にはいかないのだ。
「喜多さん、急がないと遅刻するよ。結構時間食ったから。ほら」
 手を差し出す僕をきょとんとした顔で見ていたかと思うと、一拍置いて喜多の頬が緩む。
「おう」
 仏頂面の彼女。違うな。仏頂面のフリをしている彼女――これで隠せていると思っているだから凄い――は、おずおずと手を出した。
 間違いなく役者にはなれないな。こうまで思っていることが顔に出やすいようじゃ。ギャンブラーも無理だ。ポーカーフェイスなんて夢のまた夢だから。
 僕達は、その後もぎこちない会話を繰り返しながら登校した。
 残念ながら、学校が近づき周囲に生徒が増えると、喜多は繋いでいた手を離してしまった。
 どうやら他人の視線が気になるらしい。いわゆる一つの硬派な女である彼女からしたら、男と仲良くしている姿を見られたくないのだろう。
 そのくせ、残念そうにしている。
 やれやれだ。

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