通学路の土手にある河川敷に降りるための階段に座って、僕はぼんやりと川の流れを見ている。
 別にこの国の行く末を憂いているわけではなく、単純に人待ちの時間つぶしにすることもなく、ぼんやりしているだけである。
 背後には帰宅途中の学生がばらばらと歩いている。
 特に何の変哲もない光景だ。
 僕も以前ならその群れの一人になっているだろう。
 ただ、ここ最近は違う。
 一人の女のせいだ。
 同じクラスなのだから教室から一緒に帰ればいいものを、なんか恥ずいから、というピンク頭のヒロインのようなセリフでそれを断られ、別々に教室を出て途中で合流するというまどろっこしいことをするはめになっている。
 最初のうちは本でも持ってこようかと思ったが、文学青年気取りがいると思われるのがしゃくでやめた。
 携帯をいじるのも飽きた。
 そこで仕方なく川を眺めているのだ。お嬢には悪いが、別に川の流れのようになりたいとは思わない。
「ふんふふんふんふふんボインボイーン。ちっちちっちおっぱいふふんふふーん」
「頭大丈夫か?」
 背後から声をかけられた。
 自分を待っていた人間に対する発言としてはふさわしくないと思うのだが。待たせてゴメンね、とかが正しいはずだ。
「え? あ、喜多さん」
 振り返ると、喜多が険悪な表情で僕を見下ろしている。背中からちらちら見える金髪が、夕日を浴びてきらきら輝いて綺麗だった。少なくとも数秒は思わず見とれてしまうほどに。
「なにかあったのか? 機嫌悪そうだな」
「いま悪くなったんだよ」
「なんで」
「そのわけのわかんねぇ鼻歌のせいだよ」
「そんなの歌ってた?」
「歌ってただろ。……ボインボインとかなんとか。あたしに対するあてつけかコラ、あぁ!?」
 ボイン? なんだそれ。別に月亭可朝に弟子入りしたつもりはないぞ。
「いや、仮に歌ってたとしても別にあてつけのつもりはない。でも喜多さんはあてつけと感じた。ということは、喜多さんはボインに対してなにやら引け目があるということになる」
 僕はあごをさすりながら、喜多の胸の辺りをじっくりと観察した。
 舐めるような視線を感じたのか、彼女は素早く手にしたカバンで胸元を隠す。
「け、喧嘩売ってんのか!」
 腕を振り上げた喜多が赤面して怒鳴る。
 すぐにうろたえてしまう彼女は弄りがいがあって非常に楽しい。
「売ってないって。たしかに僕も大きい胸は好きと言うのにやぶさかではない。だけど、たとえ小さくても喜多さんの胸のほうが大好きだから」
「こっ、コロス!」
 物騒な言葉を口にしたものの、褒められているのか、けなされているのか、混乱しきった喜多は感情をどうしていいのかわからないらしい。表情がころころ変わる。唇の端が柔らかく上がったり、食いしばった歯が見えたり。握ったこぶしはやり場をなくし上下に動かすだけで持て余している。とはいえ、目は笑っているので喜びが強いのだろう。
「それに喜多さんは自分の胸を恥じることはない。薄さを補って余りある感度のよさが……」
 なおも彼女の胸に対する賞賛の嵐を浴びせようとしたのだが、そこでふと頭をよぎるものがあった。別に喜多の殺気ではない。
「……桐野っ!」
 喜多が僕の口をふさごうと手を伸ばしてきた。
 それをよけながら立ち上がる。
 急に立ち上がった僕に驚いて喜多がびくりと動きを止めた。
 その隙に彼女の手を取って指を絡める。
「え、あっ……お、おい」
 喜多は途端にふにゃふにゃと全身から力を抜いて、態度を軟化させた。
 まるで猛獣に首輪をつけたようだ。
「こっ、これぐらいであたしを誤魔化せると思うなよ。おい、わかってんのか。いつもそうやって都合が悪くなると……」
「まあまあ、ちょっと落ち着いて。鼻歌に心当たりがあったから聞くだけ聞いて」
 僕は思い当たるメロディを口ずさみながら、視線で問いかけた。
 喜多がふてくされたようにうなずく。
「それだよ」
「これか。だったら喜多さんの胸に物足りなくて、つい本音が漏れたとかそういうんじゃないから安心して」
「おまえは……!」
「近所の幼稚園児の間で最近はやってる歌なんだ。なんか妙に耳に残る歌だからさ、つい鼻歌にでたんじゃないかな。だから喜多さんは心配する必要ないよ、大丈夫」
「もういい……」
 疲れた声で喜多が呟いた。
 と、じゃれるのはここまでにして。
「喜多さん」
「ん?」
「今日ほんとに大丈夫?」
「なにがだよ」
「いや、ウチに来るのが」
 途端に喜多は元気を取り戻した。というか、大慌てで周囲を見回した。
「声がでかいだろっ」
「別に変なことは言ってないけど。家に来るのが人に聞かれるとまずい?」
「いや、そんなことはねぇけど……」
「ああ!」
 わかっていたのだが、さも今気づいたようなフリをして手を叩く。
「喜多さんは僕の家に来るイコール二人きりイコールエッチだと思って……ぐっ」
 喜多がむりやり僕の頭を抱え込んでヘッドロックを食らわせ強制的におしゃべりをやめさせる。
「思ってねぇ! 死ね! コロスぞ! 黙れ!」
 ふぅふぅと息も荒く、言い放つ喜多。
 いかん。じゃれるのはこれまでと決めたのに、ついつい遊んでしまう。
 それというのも喜多が敏感すぎるというか、免疫がないというか、反応がよすぎるせいだ。決して僕のせいではない。
「いや、わかった。これ以上言わないから、離してくれ」
「ほんとだな」
 きらきらと輝く好青年は無理だとしても、できる限り誠実そうな表情をつくる。
「本当だから僕を信じて」
 我ながら恥ずかしい上に、まるで信頼できないセリフだが、喜多には効果覿面だったらしい。僕を解放してくれた。
 なんとなく僕を見る視線に熱いものを感じるのだが、気のせいだろうか。

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