後片付けは大変だった。
 まず喜多の体をお湯で絞ったタオルで拭き、自分の部屋の布団まで運びあげる。
 その後、濡れたソファを庭に出す。あとで水洗いするためだ。
 そして最後に床を拭く。
 どうして僕はこんなことをしているのだろう。我考えるゆえに我在り。思わず哲学的世界に羽ばたきそうになってしまう。
 三十分ほどかけてすべてを終えると、僕は自分の部屋に向かった。喜多の様子を見るためだ。
 まだ気がつきそうな様子はなかったので、僕は再び階下に戻ると、コーヒーを飲んだ。
 深く椅子に座り、大きく息をつく。僕がハードボイルド探偵ならタバコに火をつけ、ブランデーを流し込むところだ。
 しばらくして、目を覚ました喜多にホットミルクを飲ませると、恥ずかしがる彼女を抱えて風呂にいき、一緒に入る。
 まだ力の入らない彼女を抱えるようにして湯船につかりながら、いろいろと話をした。
 普段はコンタクトだけど、たまに眼鏡をかけること。お父さんがうっとおしいこと。バイクで走る気持ちよさについて。僕と広尾の腐れ縁について。本当に色々だ。
 その際わかったのだが、彼女はどうも自分が漏らしたことを覚えていないらしかった。
 僕が情けない思いをしながらソファにホースを向けた話をすると、なんでそんなわけわかんねぇことすんだよ、とのたまったのだ。
 僕は黙って彼女の顔にお湯を浴びせかけた。

 土曜日の朝の目覚めはすっきりと爽やかで最高だった。
 今日はきっといい一日になるだろう。柄にもなくそんなことを思ってしまうぐらいに。
 僕は横で寝ている喜多を起こさないように気をつけながら、布団から這い出した。
 大きく伸びをする。
 カーテンを明けると太陽の光がさんさんと差し込んできた。なんとなく太陽が黄色い。
 それがまぶしかったのか、喜多がもぞもぞと赤ちゃんみたいに布団のなかで身じろぐ。
 その様子に思わず微笑んでしまった。起きているときはあんなに凶暴なのに。
 掛け布団が薄いので喜多の体のラインがモロにでている。
 見事な起伏……というほどでもないなだらかな丘が僕の前にある。
 朝から興奮するのもどうかと思うので、気分を落ち着けるためにぐるりと頭をまわす。
「あ」
 思わず間抜けな声を出してしまった。
 一、二度軽く頭を振る。
 こんなことだろうと思ったんだ。柄にもないことを思ったりするから。
 時計の針は十一時を回っていた。
 これでは朝イチ上映の映画を観るどころの話ではない。とっくに第二回目の上映に突入してしまっている。
 そういえば目覚ましが鳴ったような気がしないでもない。
 とりあえず彼女を起こそう。
 僕は喜多の耳たぶにそっと触れた。
「ん……ふ」
 刺激に反応して、くすぐったそうな声を出す喜多。
「喜多さん」
 名前を呼ばれると嬉しいのか、しまりなく笑顔をつくる。
「喜多さん、もう昼だ。急いで支度しないと」
 だが、声をかけるだけでは起きそうにない。
 彼女が首を動かした拍子に、肩口に薄く赤い痕がちらりと見えた。僕が昨日食らいついた後だ。
 そこでふと、普段の自分なら絶対にしないようなことをしたくなった。どうも今日は朝からおかしい。
 静かに、できるだけ音をたてないようにして喜多の耳元に口を近づける。
「喜多さん。愛してる。すごく好きだ。小さなオッパイも、素直じゃない口も、気の強そうな目も、全部好きだ。喧嘩をする喜多さんは心配だけど、それも好きだ。僕にいたずらされて恥ずかしがってる喜多さんも好きだ。つくってくれたご飯をおいしいっていうと照れくさそうに笑う喜多さんも好きだ。手をつなぐと緊張する喜多さんも好きだし、眼鏡をかけた喜多さんも好きだ。信じてもらえないかもしれないけど、本当に全部好きだ。…薫が一番大事だ。」
 消えるように小さな声でささやき終えて顔を上げると、自分の心臓の音が聞こえてきそうだった。鼓動のほうがいまの声よりも大きそうだ。
 顔を手で覆うと、赤面しているのだろう。火照っている。
「くそっ、なんだこれ。我ながらやばいぞ。くそっ!」
 本当に今日の僕はどうしたのだろう。べろべろに酔っていてもやらないようなことをしてしまった。
 知らない間になにかに呪われたんじゃないだろうな。空と海と大地と呪われし僕。
 それともまさか、寝ている間に名状しがたき旧支配者が目覚めて僕のSUN値が下がったんじゃあるまいな。
 いや、わかったぞ。……新手のスタンド使いだ!
 そうでもないと僕がこんなことをするわけがない。
 あまりの事態に精神科に行くことを検討していると、背後で喜多が起きる気配を感じた。
 上半身だけ起こして、こちらを見ている。
 顔が茹蛸よりも真っ赤だ。寝起きから体温が高そうだな。きっと高血圧なんだろう。それとも、もしかしてりんご病にでもかかってるんじゃあないか。
「おはよう」
 声をかけると目があった。
 しかし、猛烈なスピードで目をそらし、うつむかれてしまう。
「お、おっ、おは、おは……よぅ」
 かすれた声で、何度もどもりながらの挨拶だった。
 全身から嫌な汗が噴きだす。
 僕はすべてを察した。
 できれば知らないままでいたかった。知らないほうが幸せだったのに。
 いつからかわからないが彼女は起きていたのだ。そして僕のあまりに恥ずかしいセリフを聞いていたに違いない。
 思い通りにいかないのが人生なんて割り切りたくないけれど、ひどすぎる。
 神様、あなたがこの世にいるとしたらなんと残酷なのでしょう。
 いっそ殺してくれッ。
 だが、ここで取り乱すわけにはいかない。紳士たれ! 紳士? なんだそれ。ぜんぜん冷静になれてないぞ。
 落ち着け、落ち着くんだ。
 素数を数えようか。2、3、5、7……馬鹿にしてるのか、あのキチガイ眉毛め。まるで落ち着けないじゃないか。
 とりあえず、なにか言わなくては。
「ぼ、僕もいま起きたとこなんだけど、もう十一時過ぎなんだ。映画のことは後で考えるとして、とりあえずなんか食べないか」
「おぅ」
 喜多は言葉少なに返事をしたものの、ほとんど理解していないのだろう。もじもじはにかんだまま動こうとしない。
 染まった頬は予想外の幸せに緩みきって、今にも蕩け落ちそうだ。
 くそっ! 今日はなんて日だ。なにがいい一日になるだろう、だ!
「喜多さん。ご飯食べよう。トーストでも焼くから」
 その言葉にようやく彼女が反応した。布団から腰を浮かせながら口を開く。
「えっ、だったらあたしがなんかつくるよ。昨日の残りがなんかあんだろ」
 突然、立ち上がりかけていた喜多がかくんと膝をついた。
「なに一人で遊んでるんだ」

進む
戻る

作品選択へ戻る