彼女は自分でも驚いて布団にへたり込んでいる。
「あれ? なんか動けねぇ……あっ!」
 いままでも赤かったのに、さらに喜多の頬に朱が走る。今日は朝から血圧が上がりっぱなしらしい。そのうち血管が切れて倒れてしまいそうだ。
「おっ、オマエのせいだろうがっ! 昨日のっ……!」
 喜多はそこまで言って慌てて口をふさぐ。
 どうやらまだ昨日の影響が残っているらしい。我ながら少々やりすぎたかとも思ったぐらいだから、彼女にとってはかなりの負担だったのだろう。
 とはいえ、このままずっと僕の部屋でこうしているわけにもいかない。
 しばらく思案すると、僕は彼女に提案した。
「下までおんぶしていこうか。とりあえず、食事したりして時間つぶしてる間に、少しはましになるかもしれない」
 きょとんとした顔で喜多が僕を見上げている。
 なにか言われる前に僕は彼女に背を向けてしゃがみこんだ。
 腰が抜けているというのはさぞかし不自由なのだろう。喜多は時間をかけて僕の背にしがみつく。
 僕が彼女をおぶって立ち上がると、照れくさそうにぽそぽそと呟いた。
「きょ、今日はなんか優しいよな」
 全身からもの凄い勢いで力が抜けていったが、喜多を落とさないようになんとか踏ん張る。
 過去はバラバラにしてやっても石の下からミミズのようにはい出てくる、とは誰の言葉だったか。バラバラにしてさえいないのなら、さらに激しく飛び出してくるのだろう。地球の引力を振り切り、宇宙に飛び出してしまうほどに。
 喜多がこんな調子なので、結局僕たちはトーストを焼いて食べることにした。
 僕はバターを、喜多は苺ジャムを塗ってトーストを食べていると、まだ半分夢の世界にいるような様子の喜多が話しかけてきた。
「あ、あのよ」
「ん? なに」
 パンを牛乳で流し込みながら返事をする。
「あっ、あたしも……桐野のことすっ、すっ、すっげぇ好きだぜ」
 もう半瞬タイミングが早ければ、僕は盛大に彼女の顔に牛乳を吹きかけていただろう。
 それでも、思い切りむせてしまった。
 僕は顔を覆ってテーブルにふさぎこむ。
 こんな羞恥プレイには耐えられそうにない。観客のいないのがせめてもの救いだ。特に広尾のような。
 意を決して顔をあげると、やりとげた顔で喜多が明るく笑っている。
「ホントはすぐに言おうと思ったんだけどよ。へへ、やっぱ照れくせえし。でも言わせっぱなしっつーのも女がすたんだろ」
 すたったままで構わないのに。
 そのあと、お互いの身支度を整え、僕が精神的どん底から這い上がるのに時間がかかったせいで、家を出たのは一時半だった。
 なぜそんなに時間がかかったのか。
 まず、喜多がまともに歩けるようになるまでに、少し時間がかかったということが一つ。
 次に、女の子の身支度は時間がかかるというのもあるが、なにより僕が立ち直りかけると、喜多がきらきらした視線で僕に語りかけてくるのだ。
 あたしも桐野が大好きだぜ、と。
 僕は彼女がシャワーを浴びたのにちょっかいをかけることもできないほどだった。
 その耐性を得るのに時間をかなり取ってしまったのだ。

「よし。行こうぜっ!」
 喜多が玄関から元気よく飛び出す。少し前の腰砕けだった様子は微塵もない。
 うきうきして本当に嬉しそうだ。
 膝丈のデニムスカートとティーシャツの上に薄手のジップパーカーを羽織っているだけのシンプルな装いである。
 別に制服で彼女のスカート姿は見慣れているはずなのに、私服だとなんだか妙に新鮮だ。どぎまぎしてしまう。
 彼女のことだから、てっきりジーンズかなにかのパンツ姿だろうと思っていたのだ。
 映画館に向かう電車の中で喜多を眺めていて改めて思ったのだが、彼女は人目を引く。
 いや、惹きつけるというべきか。
 初デートのせいだろう、表情が楽しげにくるくる変わって、見ているだけで飽きない。
 ときおり見とれてくる男に、なにを勘違いしたのかガンを飛ばしていることを覗けば完璧だ。
 僕は喜多をなだめつつ、これなら変な虫に引っかかる心配はないなと苦笑した。
 上映時間をチェックしていたおかげで、僕たちは次の上映が始まるちょうど十分前に到着できた。
 僕たちが見ようとしている映画はゲット・アップ・ルーシーという映画で、胸にくる感動のストーリー――こう言うとひどく陳腐に聞こえるのが悔しい――なのだが、それだけに収まらないと評判の映画である。もともとは小説なのだが、このたび待望の映画化ということになったのだ。
 原作の小説はかなり昔に出版されたもので、これを読んでこの物語のファンになった僕は、映画化に対して複雑な心境だったのだが、喜多と映画を観に行く約束をしたところ、彼女がこの映画を観たいと希望したので、僕も覚悟を決めて観に行くことになった。意外に思ったが、僕もなんだかんだ言って観たい映画ではあったのだ。
「あれ? 先輩も映画っすか」
 チケットを買おうしていると、背後から声をかけられた。
 振り向くと三人組の女の子がいる。
 なかなか可愛い子たちだが、僕は知らない。
 彼女達の雰囲気からさっするに……。
「こんちわっーす。喜多先輩」
 言いながら三人が頭を下げる。
 やはり。喜多の後輩か。
 どうやら三人組は喜多をかなり尊敬しているらしかった。彼女を見る目でわかる。憧れの先輩に休みの日に偶然会えて嬉しそうだ。
「お、おう」
 対する喜多はまずいところを見られたという風である。
 まあ、硬派を自称する彼女が男連れはまずいのだろう。それとも、単に照れくさいだけなのだろうか。
「お前らも映画か?」
「そうっす。そろそろ混まないだろうっつー話になったもんで」
「先輩と映画って奇遇っすね。先輩も沈黙でしょ」
「先輩も見たいって言ってましたもんね」
 沈黙? なんの話をしてるんだ彼女達は。
 横を見ると、喜多がしまったという顔をしている。
「いっ、いやあたしはゲット・アップ・ルーシーのほう」
 喜多がうろたえながら言う。
「えっ!?」
 三人組のうち黒髪が驚いた声をあげる。
「あ、そうなんすか。てっきり先輩の趣味だとこっちかと思ったんすけど」
 三人組みの女の子のうちの金髪が壁を指差した。その先には沈黙のデッドマンズ・ギャラクシー・デイズという映画のポスターがある。SFアクション超大作、全米ナンバーワンの文字がでかでかと印刷されている。なにが全米ナンバーワンなのかさっぱりわからない。
 きっと元海兵隊員のエリートがテロリストどもの占拠した宇宙船に、たまたまコックとして乗り合わせていて、絶対絶命の危機を彼はいったいどう戦う、というスジなのではないだろうか。
 どうやら、喜多のやつは僕を気にして自分の趣味じゃない映画を選んだらしい。
 いがいにこういう可愛いところがあるんだよな。僕は内心で微笑んだ。目尻が下がりそうになるのを我慢する。
 僕が想像を膨らませていると三人組の茶髪の女の子が僕を見た。
「先輩、この人は誰すか? もしかして……先輩の彼氏っすか」
 その言葉につられて他の二人も僕に視線を向ける。
 単刀直入な質問は喜多に大ダメージを与えた。
 思い切りうろたえたいのだが、後輩の前でかっこ悪い姿を見せるわけにはいかないと、必死で取り繕っているのがほほえましい。
 僕の目を見て助けを求めるのだが、知らん振りをする。彼女がどう答えるのか楽しみだ。

進む
戻る

作品選択へ戻る