この頃になると周囲の人も喧嘩に気づき始めた。こちらを遠巻きにして様子を窺っている。
 まずいぞ。きっと誰かが警察を呼ぶ。
 もし捕まりでもしたら、またややこしいことになってしまう。
 しかし、喜多は僕の心配にはまるで気づかずに、倒れたロンゲの上にまたがった。
 羨ましい奴め。僕だってそんな体位はまだ試してないのに。
 ……だめだ。まったく笑える気分にならない。
「前から思ってたんだ……それ引っ張りたいなってよ」
 怒りに歪んでいるかと思った喜多の顔は、能面のように冷たい表情で、哀れな獲物を見下ろしている。
 あんな喜多は見たことがない。
 いままで喧嘩をしていても、彼女の表情はくるくると変化していた。例えそれが怒りによるものだとしても。
「え?」
 ロンゲが喜多の言葉を理解するよりも早く、彼女の腕が動いた。
 ぴっ、という軽い音とともに男のピアスを繋いでいたチェーンが毟り取られてしまう。
 ピアスには肉片が付着している。
 それを見た男がようやく事態を理解して悲鳴をあげる。
「おわぎゃあああああああああ! 痛ぇよぉぉぉ!!」
 普段の喜多ならそこでなにか憎まれ口の一つでも叩いただろう。しかし、いまの彼女はなにも言わなかった。
 ただ、拳を男の顔に淡々と振り下ろす。
 肉が潰れるいやな音が響く。
 十数発も殴っただろうか。喜多がチェーンを握ったまま男を殴っていたことに気づいたらしい。手を止めて、じっと鎖を見ている。
 なにか思いついたらしく、薄く唇を吊り上げた。凍りつきそうな凄絶な笑みだった。
「ピアス好きみたいだから穴あけてやるよ」
 不吉な発言はロンゲの耳に届いただろうか。
 きっといまの彼はクライベイビーサクラと闘ったグレート巽のような心境だろう。人間と闘っている気すらしない。
 喜多がピアスの針を男の頬に無造作に突き刺した。そのまま、針を動かして落書きをするように細い線を描く。色はもちろん赤。
「いぎゃあ!」
 泣き喚くロンゲの顔を無理やり押さえつけると、喜多はもう片方のピアスを反対側の頬に突き刺した。
「がががががが――」
 人間とは思えない声をだしながらもがく男の様子に、ようやく満足したのか、喜多が立ち上がる。
 顔を押さえてのたうつロンゲを冷たく見下ろすと、今度は鳩尾に容赦ない蹴りを食らわせた。
 彼の口から胃液とも、血ともつかないものが吹き出す。
 ゆっくりと首を動かし、喜多が顔を坊主頭に向ける。
 坊主頭のチンピラの顔が恐怖に染まる。逃げたいのに足がすくんで動かないのだろう。きょろきょろと辺りに助けを求めるが、そんなものがあるはずもない。
 喜多が彼のほうへゆっくりと足を踏み出した。
「ひっ!」
 引きつった声が坊主頭の口からこぼれる。
 と、そのとき。パトカーのサイレンの音が近づいてきた。
 さきほど僕が心配したとおり、周りで見ていた誰かが警察を呼んだのだろう。
 音から察するに、到着するにはもう少し時間がかかりそうだ。
 僕は大急ぎで坊主頭に向かっている喜多の手を取った。
「……桐野」
 びっくりした顔で僕を見つめている。
 触れた瞬間ぶん殴られるのではないかと心配したが、杞憂ですんだようだ。
「急いで逃げないと」
「でもまだアイツが」
 喜多が五体満足――と言ってもすでに精神はぼろぼろだろう――な坊主頭を悔しそうに睨みつけた。
 いやいやをするように坊主頭が振られている。
「僕のためならもういいから、捕まる前に行くよ」
「……おう」
 頷いた喜多だったが、最後に坊主頭に吐き捨てた。
「そこのクズにも伝えとけ、今後あたしらにちょっかいかけたらコロス」
 静かな声の調子だったが、それが坊主頭を心から怯えさせたのだろう。彼は首が振り子になったように激しく上下させた。
「じゃあ、また今度会ったときに自己紹介するから」
 僕はあっけにとられている喜多の後輩の女の子たちに声をかけると、喜多を引っ張って一目散に逃げ出した。

 それから僕たちはデートを切り上げ、電車に乗って家に帰ることにした。
 電車の中で、喜多は厳しい顔をしたまま一言もしゃべらなかった。うつむいたまま僕の顔を見ることもない。
 僕たちは黙ったまま、駅を降り、家に向かった。
 彼女はまだ口を開かない。
 そのうちにいつもの土手に差し掛かった。
 沈みかけの夕日がひどくまぶしい。太陽の光を反射して川面がオレンジ色になっている。
 繋いでいた喜多の手にかすかな緊張が走った。
「……ごめん」
 随分長い間彼女の声を聞いていなかったような気がする。
 震える唇で、ぽつりと呟かれた言葉が僕の胸に染みこんでいく。
 彼女の手を強く握り返す。
「なにが?」
 僕が問いかけても、喜多は答えなかった。
 手を握り返してくることもない。
「別に謝ることなんてしてないだろ」
 できるだけさりげなくそう言った。
「でも、今日のデートあたしがケンカしたせいで」
 どんな顔をしてそんなことを言うのだろう。夕日のせいで彼女の表情がわからない。
「いつもケンカばっかして、心配させて、あげくに今日は巻き込んで――」
 そこで、喜多はいったん口を閉じ、
「桐野に迷惑ばっかかけてるよな、あたし」
 寂しそうに呟いた。
 まだ僕の顔を見ようとしない。
 僕のために怒ってくれたんだったら、迷惑なんかじゃない。そう言おうとしたが、今の彼女にそんな言葉が届くのだろうか。
 きっといまの彼女には慰めにしか聞こえないだろう。
 繋いだ手から、僕の掌から彼女の掌に、僕の気持ちが伝わればいいのに。
 僕たちを再び沈黙が包んだ。
 それからしばらく、どうすることもできずに歩いていたのだが、土手の終わりが近づいたころ、僕の口が自然に動いた。
「今日――」
「桐野?」
「今日、薫とあの映画観れて良かった」
「……桐野……」
「薫と一緒に見れて本当に良かったと思う。薫だから良かったんだ。だから……迷惑とか言うなよ」
 彼女の指に力が込められる。
 驚いた顔でこちらを見つめている。潤んだ瞳が大きく見開かれていた。
 濡れたまつげに飾られた瞳をじっと見つめていると、彼女の唇がかすかに震えた。
 それをかすめるように、触れるだけのキスをして一瞬で離れる。
 呆然としていた薫は微笑むと、はにかみながら目をそらした。
 光る川を見つめる彼女の口から、消えそうにかすかな声が聞こえた。
「……おう」
 幸せそうな彼女の横顔を、僕は心の底から愛しいと思う。
 が。
「やっぱ……今日の桐野はなんかすげぇ優しいよ」
 朝の醜態を思い出して、今度は僕が落ち込む番だった。

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