そもそも僕の家に喜多が泊まることになったのは明日、土曜日に映画を一緒に見に行くためだ。
 目的の映画は封切りして間もないため、ゆっくり座って観るためには朝イチで映画館に行ったほうがいいだろうということになり、どうせ朝早いんだったら家に泊まれば、というように流れ流れてお泊りが決定した。
 以下がそのときの会話の一部である。
「遅刻すんなよ! ……そうだ、あたしが……起こしに、い、行ってやろうか」
「悪いからいいよ」
「あ、あたしが起こしてやるっつってんだから、素直に――」
「いや、でも悪いし。けっこう家遠いだろ」
「……ぜってぇ起こすっ! そうだ……と、泊まるっ! 桐野んちに泊まれば遠くねぇだろ!」
 そう言う前の意地になった喜多の下唇を噛み締めている表情、その後の、とんでもないことを言ってしまったという表情。
 僕はもう、わかった、としか言えなかった。
 思い出し笑いで頬が緩むのもしかたないだろう。
 当の本人はいま僕の眼前で料理をしている。
 なんだか先週末に時間が戻ったようだがそうではない。その証拠に今回は持参したエプロンをつけて腕を振るっている。
 エプロンの下は裸と言いたいが、それを提案したところ、赤面した喜多から繰り出された拳が僕の頬を掠めたため却下された。
 暴力に屈したのではない、あくまでお互いの意思をを尊重した結果である。
 話を戻そう。エプロンの下はティーシャツとジャージのズボンだ。あまり色気はない。
 家についてすぐに、お互い制服から着替えたのだ。
 僕は目の前で着替えるように主張したのだが、喜多はそれを嫌がりトイレで着替えると言い出した。
 もう全部見せているからかまわないではないか。要約すると以上のようなことを丁寧に説明したのだが、彼女はそれに対して僕の胸倉を掴み、恐ろしく低い声で、コロすぞ、と反論した。
 彼女の丁寧な言葉に深く感じ入った僕は丁重に我が家のトイレまで案内した。
 言うまでもないことだが恐怖に屈したわけではなく、お互いの意思を尊重するという一文明人としての行動規範に従っただけである。
 ともかく、喜多は僕の目の前で腕を振るっている。
 しかも、前回と違い冷蔵庫の残り物などではなく、きちんと前日に僕が買い物に行って買ってきた材料――喜多に渡されたメモを片手に初めてのおつかいよろしく買ってきたもの――でつくるのだから嫌でも期待が高まる。
 料理を始めて二時間ほど、もう七時近い。
 料理をする喜多の背中にどうでもいいことを話しかけていると、そのうちに肉の焼ける音とともにいい匂いが漂ってきた。
「そろそろできるから、テーブルの上片付けろよ」
 返事をすると、僕はテーブルの上をざっと片付けた。
 僕がテーブルを軽く拭き終えるのとほぼ同時に喜多が次々に料理を運んでくる。
「すごい!」
 僕の感嘆の声に、喜多は満足げな顔をする。
「たいしたことねぇよ」
「いやいや、これはたいしたことある」
 新しい皿が運ばれるたびに僕は、生唾を飲み込みながら料理についてたずねた。
 キャベツと揚げナスとカリカリベーコンサラダ。アボガドと蒸し鶏のワサビソースかけ。豚ヒレ肉のガーリックソテー、バルサミコバターソース。小さなグラタン。たまねぎとにんじんと残り野菜のブロード。ご飯。以上が本日の夕食である。
 ブロードなんてソードしか知らない僕が喜多に質問すると、ブイヨンのことだという答えが返ってきた。しかし、それでもわからずに再度たずねてようやく理解できた。どうやらスープという意味らしい。
 いただきますを合図に僕はしゃべる間もおしく、料理を食べ始めた。
 まずスープでのどを潤すと、ガーリックソテーを口に放り込み、ご飯をかきこむ。
 これが喜多の魔法だーっ! カカカカカーッ!! と喜多さんが叫んでも今の僕なら許せるだろう。
 もぐもぐとあごを動かすと、一噛みごとに口の中に幸せが広がる。
 続いてアボガドと蒸し鶏のワサビソースかけをつまみあげた。億泰と同じ轍は踏まない。僕は最初からアボガドとささみをまとめて食べる。
「ウンまあぁーい! さっぱりとした鶏肉にアボガドのこってり部分がからみつくうまさだっ!アボガドが鶏肉を、鶏肉がアボガドをひき立てるっ! 例えるなら素晴らしきヒィッツカラルドとマスク・ザ・レッドのコンビ! 覚悟に対する散! 寺沢大介の原作に対する今川泰宏のミスター味っ子! ていう感じ」
「よくわかんねぇけど、桐野がうまいならいいよ」
 珍しく素直に笑みを見せる喜多に、なぜか僕が恥ずかしくなってしまった。
 ごほんと咳払いをすると、改めて賞賛する。
「ほんとにおいしい。やっぱ喜多さんの料理は最高だ。弁当食べてたときも思ってたけど、出来立てはさらにおいしいな。このサラダもおいしいし、グラタンも最高! 魯山人にも食べさせてやりたいね」
 行儀悪く食べながら口を動かす僕を注意することもなく、喜多は照れくさそうにしている。
 どうも彼女は真正面から褒められると恥ずかしいようだ。受身にまわると弱いタイプだ。
「喜多さん、喜多さん」
「ん?」
「あーん」
 僕は豚肉をつまみあげた。
 一瞬ドキリとした表情をした喜多は、すぐに眉を吊り上げた。
「もうその手は食わねぇからな」
 どうも先週のことが尾を引いているらしい。
「同じことを二回もやらないって、それにこの前だって結局ちゃんとやっただろ。喜多さんだって食べたくせに」
「あ、あれは桐野がしつこいから仕方なく食ってやっただけだ」
 確か僕の記憶では、とけそうなぐらい嬉しそうに僕の差し出したものを食べていたと思うのだが。
「けっこう嬉しそうに食べてたと思うけどな、お返しもしてくれたし」
 これは効いたらしい。
 喜多は顔を真っ赤にしてなにやらもごもごと呟きながら、グラタンをかき回しだした。
「ち、違うだろ。あ、あれはその、仕方なくっつーか、そう! 桐野がして欲しそうにしてたからだろっ」
 これもまた僕の記憶とは違う。
 あのとき僕の差し出したものを食べ終えたあと、喜多さんはすぐさま僕に向かって少し裏返った声で、あーん、と言った気がする。
「喜多さんがしたかっただけじゃないのか? 僕は別にそんな顔をしてたつもりは……」
「しっ、してたんだよっ!」
「喜多さんがそう言うならそれでいいよ。それではあらためて、あーん」
「今度はちゃんとしろよ」
「わかってる」
 喜多さんは僕の返事になおも疑わしい顔をしていたが、やがて観念したのかゆっくりと唇を開いた。
 予想通りと言うべきだろうか。決して僕をまともに見ようとはせずに、横目で壁を睨みながら頬を染めている。
 きっと口ではなんだかんだ言っても嬉しいのだ。こういう新婚さんのような行為が。
「早くしろよっ!」
 なかなか食べさせないので、羞恥が増してきたのか、怒った声――あくまでフリ――で僕をせかす。
「はいはい、もう一回あーんして」
 今度はきちんと彼女の口元に肉を近づけていく。
「ぁー」
 喜多が小さな声で復唱しているのが可愛らしい。
 ゆっくりと箸を動かし、ソースが彼女のぷるぷるした唇に触れた瞬間。僕は豚肉を自分の口に投げ込んだ。
 ぱくんと口を閉じた喜多が呆然として僕を見つめている。
「食べさせてあげようとしたんだけど、それをやると三枝師匠が椅子から転げ落ちるような気がして……」
 ゆっくりと現状を認識しだしたらしく、喜多はふるふると震え始めた。目じりには羞恥のあまりかわずかだが涙が浮かんでいる。
 握った箸をみしみし言わせながら、彼女が僕を睨む。下からねじ上げるように。
「き〜り〜の〜……」
「ご、ごめんなさい」
 ドスの効いた声に僕は怯えることしかできなかった。

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