「まあまあ落ち着いて喜多さん。覚えてるかな、今日の帰りのこと」
「帰り?」
「そう、帰り道のときに僕が言ったんだけど」
 固唾をのんで僕の次の言葉を待つ喜多。もうなにかを考える余裕もないらしい。
「ウソをついた罰を与えるって」
「言ったから、だから早くあたしに」
 喜多が物欲しそうに唇から熱い息をこぼす。
「まだわからない? 罰は喜多さんになにもしないこと」
「はぁ!?」
「ここで僕が喜多さんにやらしいことをしたら喜ぶだろ」
「喜ばねぇよ!」
 精一杯の意地を張るが、彼女の目はそうは言っていない。
 だが、喜多はさらに言葉を重ねた。
「誰が喜ぶかボケっ! あたしは仕方ねぇからだな――」
「仕方なくだったら罰にもならない罰でよかったじゃないか」
 僕がにやりと笑うと、それとは対照的に喜多は悔しそうにうめいた。
「死ねっ!」
 吐き捨てた喜多はテーブルに置いてあったリモコンを乱暴に引っ掴むとテレビをつけた。
 僕に背を向け、ぱちぱちとチャンネルを変えていく。
 結局ニュースに落ち着いたが、それが見たかったわけではないだろう。僕に対するあてつけなのだろうから。
 テレビなんか上の空でアナウンサーが伝える話などかけらも耳に入っていないだろう。
「……の行方不明者の数は全国平均の約八倍に達しており、市は近くなんらかの対策を……」
 僕も誠実そうなアナウンサーには申し訳ないが、ニュースそっちのけで喜多の様子を窺っているのだからおあいこだ。
 まだ興奮が収まらないのか、彼女は太ももをこすり合わせてもじもじしている。
 さすがに直接手で体に触れたりはしないようだ。せめてもの意地というやつだろうか、それとも無意識でやっているので自分ではわかっていないだけなのだろうか。
 おそらく後者だろう。意地っ張りの喜多のことだ、僕の目の前で自分で慰めるなんてまねは絶対にしないはずだ。
 ときおり甘いため息をつくのがきつい。すぐに飛び掛ってしまいたくなる。
「喜多さん」
 僕が呼びかけると、弾かれたように振り向いた。
「なんだよ」
 期待しているのか、逃げたがっているのか。怒っているのか、喜んでいるのか。複雑な感情を隠そうともせずに喜多が次の言葉を待っている。
 僕が口ごもると、喜多が切なげな顔をした。
 やばい。
 あんな顔されたらすぐに抱きしめたくなる。
 けど、ここですぐに飛びついたらどっちがご主人様かわからないぞ。
 えっと、なにを言おうとしたんだっけ。
 まずい。このままだとまずいぞ。
「ちょっとスプライトが飲みたくなったからコンビニ行ってくる。透明だから。えっと、なにか欲しいものある? 買ってくるけど」
 僕のほうが我慢できそうになくなって、やむをえず緊急避難することにした。戦略的撤退というやつだ。
「別にねぇよ」
 ふてくされた声で喜多が返すのを背中で聞きながら僕は家を出た。
 すでに暗い道を歩きながら、大きく息を吸い込む。
 少し前までと比べると、昼はともかく、日が落ちさえすればだいぶ涼しく快適になってきた。
 深呼吸のおかげで多少は冷静になった頭で考えるのはもちろん先ほどのことだ。
 焦らすつもりが、こちらが焦らされてしまった。
 もしかすると、自分で思っている以上に喜多を好きになっているのかもしれない。
 そんなことをぼんやりと考えているとすぐにオーソンに着いた。
 いまいち好みの品を置いていないのだが、一番近くにあるコンビニだから仕方ない。
 スプライトを買ってすぐに帰っては元の木阿弥になってしまう。少し時間を潰さなくては。
 やむを得ず、読みたくもない雑誌を立ち読みすることにする。
 棚にある本を適当に一冊取ると『喰うか喰われるか!!世界食通事情』というタイトルの本だった。普段なら面白いと思うような内容だったのだが、いまの僕の興味を引くことはできなかった。
 結局、スプライトと適当に何本かペットボトルの飲み物を買うとすぐにコンビニを出てしまった。
 できるだけゆっくりと歩いてかえったのだが、すぐに家についてしまう。
 携帯で時間を確認すると、それでも三十分弱が経っていた。
 もういいだろう。自分をむりやり納得させると、まるで泥棒にでもなったように、僕はこそこそと家に入った。
 喜多を驚かしてやろうと思ったのだ。我ながらガキっぽいが思いついてしまったものはしょうがない。
 静かにドアを開け、そっと靴を脱ぐ。
 忍び足でリビングの前まで行くと、声が聞こえた。もちろん喜多の声だ。残念ながらなにを言っているのかまではわからない。
 注意深くドアを開け、中の様子を窺う。
「……!」
 僕は思わず大声をあげそうになった。が、必死で息を止めなんとかこらえる。
 大きく深呼吸して、もう一度、確認のために中を覗く。やはり僕の見間違いではなかった。
 そこには予想の斜め上どころか、そんなものは遥か彼方にぶっとんだ光景があった。
 なんと喜多がソファで僕の制服に顔をうずめて悶えていたのだ。
 着替えるときにリビングのソファに投げ捨てたままほったらかしにしていたのだが、なにがどうなってこうなったのかさっぱりである。
 とりあえず事態を理解すべく観察を続けていると、わずかだが彼女の呟きが聞き取れた。
「いい匂い、んっ。すぅ――っふぅ……ぅん……あぁ桐野のだ……なんでイジワルばっか……ぁあ……」
 匂いフェチだったのだろうか。
 喜多は一心不乱に僕の制服を抱きしめて、こちらに気づくそぶりも見せない。
 ふとももで僕の制服を挟み込み、惚けた顔を制服に近づけている。
 これは面白いネタができた。
 僕は喜び勇んでドアを開けた。今度はわざと音をたてて。
「ただいま喜多さん」
 跳ね起きた彼女は僕の制服を抱きしめたまま、棒立ちになっている。見る見るうちに顔から血の気が引いていく。
「い、いつ……」
 いつ帰ってきたのか問いたいのだろうが、それ以上言葉が出ないらしい。
 おどおどしている彼女に向かって僕が足を踏み出すと、後ずさろうとする。だが、すぐ後ろのソファに躓き、そのまま倒れるようにへたり込んでしまった。
 僕は彼女を見下ろすようにしてソファの前に立った。
「ちょっと喜多さんをびっくりさせようと思ってこっそり帰ってきたんだけど……」
 喜多は僕を睨むように見上げた。せめてもの抵抗というやつだろう。
 しかし、あの光景を目撃したあとではなんにもならない。
「服なんて嗅がなくても本人がいるのに」
「うっせぇ! 黙れっ!」
 僕の言葉をさえぎるように腕を振ると、喜多はやけくそになってわめき散らし始めた。
「オマエのせいであんなことするハメになったんだろうがボケっ! こそこそ覗くなんて見損なったぜっ!」
 よくもまあ、そこまで無茶苦茶を言えるものだ。

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