「姉ちゃんが!?」
 飲みかけていたお茶を吹き出しそうになりながら源三が叫んだ。
「別におかしくないだろ。薫だってもう子供じゃないんだ。彼氏ができりゃあそんなこともしたくなるだろ」
「でも」
「なんか朝から妙にうきうきしてると思ったんだよ。別に集会に行くときだってあんな風にはならないし、どうしたのかと思ったら」
 次男の言葉が進むにつれ、正造の周りの空気が重く歪み、よどんでいく。
 気のせいか、正造の身体から奇妙なもやのようなものがふきだしつつある。
 このままでは魔闘気を抑える鎧をつけていない彼は、魔界に入って魔人と化してしまう。
「源三……!」
 正造が聞くものがすくみ上がるほど低い声で末の息子の名を呼んだ。
「な、なに?」
 父親の異様な様子に怖気づいたように、源三がかすれた声で返事をする。
「お前は今日学校を早退しろ」
「そ、早退?」
 後ずさることもできずに、源三は鸚鵡のように繰り返す。
「そうだ。早退して薫が今日どこに、どんな奴と泊まるのか調べろ」
「えっ、ちょ、ちょっと待って。僕今日はクラブの練習が――」
 源三は最後まで言わせてもらえなかった。正造が彼の顔面を鷲掴みにして持ち上げたからである。みしみしと頭蓋骨のきしむ音がする。
 父親の腕にしがみつきながら、何とか逃れようとするが正造の腕は微動だにしない。
「た、助けて兄ちゃん」
 指の隙間から見える二人の兄に必死で助けを求めるが、彼らは末弟の危機になんら動こうとしない。
「お、俺は今日柔道連盟の偉いさんが練習を見学しにくるからはずせねえんだ」
「仕事だ」
 二人の兄に見捨てられた源三に、正造から最後通告が出された。
「早退しろ」
「……はい」
 源三は目をかけてくれている先輩に心の中で土下座し、己の命を救った。
「わしの薫が自分から外泊などをするわけがない。絶対にたぶらかされてるに決まっとるんだ。いいな。必ず薫の交際相手を突き止めろ」
正造が心の平衡を失ったのはいつの頃からであろう。愛娘である筈の薫の心を見ず知らずの男に奪われた時ではなかったか。
 三兄弟はそれぞれの言葉で父親の心中を推測したが、もっともわかりやすく端的に彼の心中を表現するとこうなる。
 外泊とは死狂いなり、正気にて外泊ならず。
 この異様な思想から正造が薫をどれほど溺愛しているかがわかる。
 ともあれ、そんなことはいまの源三には関係ない。ただ助かったと安堵し、どうして僕が、と嘆くだけである。

 学校を早退し、用意しておいた私服に着替えると、源三は姉の通う高校に向かった。
 一時間ほど駅前のコーヒーショップで時間を潰す。もうしばらく待てばようやく下校時間である。
 源三は店を出ると校門前のコンビニに場所を移し、姉が現れるのを待った。
 適当な雑誌を手に取り、立ち読みをするふりをして校門の様子を窺う。
 店内の時計は三時五分を示している。
 最初はむりやりやらされた姉の尾行だが、こうしていると刑事か探偵にでもなったようで次第にやる気が出てくる。
 それになにより見知らぬ姉の恋人に興味があった。いったいどんな人間があの姉と付き合うことができるのか。
 源三は世界番長連合友の会日本支部番長で、第四十八回全世界総番決定戦で日本人として初めて決勝戦までコマを進め、最後の戦いで対戦相手の現代によみがえったゼウスことギリシャ番長ゴッド・バシレイオスに惜しくも敗れたものの、その見事な番長ぶりから試合に負けて勝負に勝ったと評されたような男を想像した。
 もしくは百点差をつけられていないのに男球を投げられるような人物。
 それぐらいの人間でなければ姉と付き合うことなどできない。
 そこまで考えて源三は恐ろしいことに気づいてしまった。
 ……それぐらいの人間? 人間?
 相手は本当に人間だろうか、人類だろうか。
 もし悪魔の側の人間だったら、いや、それならまだいい。デビルサイダーならまだいい。
 ……口癖がドムゴーォオだったら。超高次元の魔神だったら――。
 源三の背筋をうそ寒いものが駆け上がる。
 ちょうどいいタイミングで学校からチャイムが聞こえた。
 びくりと体が震え、思わず源三は手にしていた雑誌を落としてしまう。
 時計は三時半。授業の終わりを示すチャイムだ。
 もうあとわずかで生徒達がぞろぞろと校門から姿を見せ始めるだろう。
 緊張が高まってくる。
 ごくりとのどを鳴らすと、源三は姉に気づかれないように、鞄から帽子を取り出し深くかぶった。
 それから十分後。
 源三はほっとしたような、拍子抜けしたような複雑な気分だった。
 姉が一人で出てきたからである。
「恋人は同じ学校じゃないのかな」
 呟くと、源三は本を書架に戻してコンビニを出た。
 気づかれないように注意深く距離をとって薫のあとをつける。
 そのうちに川沿いの土手に出た。
 普段源三が自主トレのときに走る道である。
「なんだ? 父さんの勘違いなんじゃ……」
 わけのわからない指令を出した父への愚痴をこぼしかけたとき、突然薫が足を止めた。
 慌てて身を隠そうとするが周囲にはなにもない。
 やむを得ず、川とは反対側の土手の斜面に身を隠す。
 自分でもなにをやっているのか情けなくなる。
 源三がうろたえている間に、薫は河原に降りる階段に腰を下ろしていた男に声をかけ始めた。
「なんだ? 知り合いか?」
 離れているせいで会話が聞こえない。
 なにを話しているのか気になるがこれ以上近づくことはできない。気づかれてしまう。
 じりじりと焦燥感を募らせる源三に関係なく、話しこんでいた二人の男女は言い争いを始めたようである。
「あっ!」
 姉が手を振り上げる光景が源三の目に飛び込んできた。
 まずい。このままでは血みどろの惨事が。
 思わず源三は目を閉じる。
 だが、彼の意に反して悲鳴は聞こえてこない。
 恐る恐るまぶたを上げると、そこには暴力を振るっているよりも恐ろしい姉の姿があった。
 姉が、男と、手を、繋いでいる!
 まさか! ということはあいつが姉の恋人なのか!?
 源三は世界のすべてを疑った。
 男は拍子抜けするほど普通の男だったのだ。
 特に喧嘩が強そうでもなければ、筋肉ムキムキでもないし、顔がとびきり良いわけでもない。
 本当に普通の男だ。
 なんだったら自分と友達になれそうだ。源三はそうも考えた。
「なんで……?」
 知らず口から漏れた言葉に慌てて頭を振る源三。
 騙されてはいけない。姉と付き合っている時点で普通ではないのだから。
 一瞬、あれは恋人などではないのではないかと思ったが、源三はあれほど嬉しそうな姉の顔を見たことがない。
 第一、姉がどうでもいい男に手をつながれておとなしくしているたまか? 気に入らなければ今頃相手は血の海に沈んでいるはずだ。
 源三が現実を抱えきれずに混乱しきっていると、二人は楽しげに話しながら歩き始めた。
 くらくらする頭を押さえながら、それでも源三は尾行を続ける。
 しばらく歩くと、一軒の家に二人が入って行った。
 源三は呆然とそれを眺めることしかできなかった。

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