「なんで僕はこんなことをしてるんだろう」
 電柱に寄りかかりながら源三は一人ごちた。
 姉が男と二人で家に入ってからすでに二時間。
 わかったことといえば、表札からこの家の住人が桐野ということぐらい。
 今すぐにでも帰りたいが、このまま帰っては父親になにをされるかわからない。
 ため息をつきながら、源三はいまが冬でないことを感謝した。
 やむを得ず、源三は携帯電話を取り出すと友人に電話をかけて時間を潰すことにする。
 それからさらに一時間半が経過した。辺りはすでに薄暗い。
 空腹をこらえながら源三が四人目の相手と電話でしゃべっていると、ようやく動きがあった。
 家から男が出てきたのだ。それも一人で。
 源三は慌てて会話を打ち切って携帯電話をしまうと、見知らぬ男の家に集中する。
 しかし、いつまでたっても姉の出てくる様子はない。
 だれきっていた頭に喝を入れ、源三はゆっくりと考える。
 自分の恋人? を家族のいる家に一人で残すことはないだろう。
 家に二人が入ったときの様子を思い出しても、誰もいなかったように思える。
 ということは、いまあの家には姉が一人でいるはずだ。
 こうなったら直接あの家を訪ねて姉に話を聞こう。そう決心すると、源三は桐野家のインターホンを鳴らした。
 普段の彼ならば絶対にしない行為である。
 姉のあとをつけてきたなどと知られたならば、どんな報復が待っているかわかりきっているからだ。
 しかし、現在の源三は長い張り込みに倦み疲れ、思考能力が麻痺していた。
 事態が動くならばなんでもよかったのだ。
 ドア越しに、中から軽い足音が聞こえてくる。
 おそらく姉だろう。
 尋ねるべきは一つ。この家に一緒に入った男は恋人か否か。
 なんだ。簡単じゃないか。
 源三はゆっくりと息を吐くと、姉の姿を待った。
 だが、現実は往々にして想像をはるかに飛び越えていくものだ。
 まだ若い源三はそのことを知らなかった。
 勢いよくドアが開く。
「桐野っ!」 
 姉が飛び出してきたかと思うと、自分に抱きついてきた。
 源三はただうろたえ、棒立ちになって姉を受け止める。
「えっ!? えっ!? 姉ちゃん!?」
「源三っ!?」
 姉弟の悲鳴が交錯した。
「なんで源三がここにっ!?」
 薫が混乱しきった顔で抱きついた相手を見つめる。
 彼女にしてみれば、桐野がすぐに戻ってきてくれたものだと思って、勇気を振り絞り、愛しい男に飛びついて喜びを伝えようとしたはずなのに、その相手が弟になるなどわけがわからない。
 だが、源三はそれ以上に混乱していた。
 受け取った情報を処理しきれずに脳が機能を停止したのである。
 これは姉ちゃん!?
 まさか姉ちゃんがこんなにも切ない声で人の名前を呼ぶとは。
 まさか姉ちゃんがこんなにも女になるとは。
 いや、姉ちゃんは姉ちゃんだからもともと女だからこれは変じゃないのか?
 女の子みたいに柔らかい。
 いや、だから姉ちゃんは女なんだから女の子みたいってことはないよな。
 うわっ! 潤んだ目が妙に色っぽいぞ。
 これは本当に姉ちゃんか?
 本物の姉ちゃんならマリー・アントワネットのものまねができるはずだ。
 パンがなければお菓子を食べればいいじゃない。
 うわー。超ごうまーん。
 僕はなにを考えてるんだろう?
 だから姉ちゃんが姉ちゃんじゃないみたいに女みたいで女だからおかしくなくてということはやっぱりさっきの男が姉ちゃんの恋人ってことになるのかどうなんだだめだわからない……。
 源三が半ば現実逃避している間に、薫のほうはすべてを理解しないまでも、事態をなんとかしなければいけないということに気づいた。
 いまだ硬直したままの弟から身を引くと、素早く腰を落とし、拳を繰り出す。
「あ――」
 なにか言いかけた源三の顎に拳が触れた。
 瞬間。源三の脳みそは素早く揺らされ、彼は糸の切れた人形のように地面に膝をつき、ついで倒れ伏した。
「なんで源三がこんなとこに?」
 それよりも桐野と源三を間違えて抱きついてしまったことのほうが問題だ。
 思い出すだけで情けなさと恥ずかしさが入り混じる。
 しばらくの間、薫は顔を両手で覆ったまま立ち尽くした。
「ちくしょうっ! それもこれも桐野があたしをほったらかしにするからっ」
 この場にいない人間に責任をなすりつけると、薫は弟をどうするか頭を悩ませ始めた。
 
「……ん?」
 目をこすりながら源三は目覚めた。
「ここどこ?」
 きょろきょろと周囲の様子を確認すると、住宅街の電柱に寄りかかって座り込んでいるようだ。
 なんだか凄いことがあったような気がするけど。
「そうだ! 姉ちゃんに抱きつかれて……それからどうなったんだ?」
 ズボンの砂を払いながら立ち上がると、再度辺りを見回す。
「あ、あれ桐野だったっけ……姉ちゃんの入っていった家だ」
 少し離れたところに、今日一日うんざりするほど眺めていた家があった。
 源三は知らないことだが、薫に昏倒させられたあと、彼は姉に引きずられ、桐野家から少し離れたところにある電柱に身を隠すように放置されたのである。
 改めて、源三はいまが冬でないことに感謝すべきだろう。
「えっと……、結局あの男の人が姉ちゃんの恋人でいいのかな。抱きつこうとしたぐらいだからたぶんそうだよなあ。僕が間違えられたけど」
 いまだに混乱の残る頭で源三が事態を整理しようとする。
「姉ちゃんに恋人か……。普通にしてれば綺麗なんだから今までいなかったほうが不思議なのかも。僕も彼女が欲しいな。まさか姉ちゃんに先を越されるとは思わなかったなあ……」
 源三はどのように父親に報告してもろくなことにならないだろうと、憂鬱な気持ちで家路に着いた。

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