チャイムを背に、数学教師が出席簿を小脇に抱えて出て行く。
 昼休みが始まったのだ。
 とたんに教室が騒がしくなる。
 人によってはこのときのために長く辛い午前の授業を耐え抜くのだという者もいる。
 例えば僕と腐れ縁のバカなどもその一人だ。
 昼休み。おお、我らに活力を与え、精神を健やかなるものにしてくれる素晴らしき一時間もの解放のときよ。汝に栄光と祝福あれ。
 いつだったか、そのバカがチャイムと同時に高らかに謳いあげた文句である。
 僕が教科書をしまっていると、喜多が近づいてきた。手にはカバンを提げている。
 もう最近では珍しい光景でもなんでもないが、弁当を作ってきてくれた喜多が、僕を昼食に誘いに来たのである。
 当初、ほとんどのクラスメートは喜多が僕をボコボコにするために呼び出しているのだと思っていたが、それがあまりに連日続いたこと、僕と彼女が付き合っているらしいということが浸透してきたこの頃は、ようやくたんに二人で昼食をとるためだということが理解されだしてきた。
 それでも、いまだに僕が喜多にぶん殴られていると信じる者はいるし、彼女のカバンの中には弁当ではなく殺戮兵器が入っていると信じている者はいる。
「お、おう桐野。ちょっと来いよ」
 僕と目を合わせずに、なぜか教室の壁を見ながら喜多が声をかけてきた。
 もういい加減慣れてもいいだろうに、相変わらず彼女は僕を昼食に誘うとき緊張した様子でいる。
 そんなところが可愛いのだが、それを口に出すと怒るので言わない。
「うん」
 かわりに、僕は返事をしながら立ち上がった。
 僕たちは裏庭の一角、非常階段のあるあたりに向かう。
 そこはあまり普段から人気がない。二人で弁当を食べているのを他人に見られるのを恥ずかしがる喜多が探し当てた、いわば秘密の場所である。
 僕としても人目を気にせず、いろいろなちょっかいをかけることができるので文句はない。
 いつもの場所に来ると、腰を下ろした喜多がカバンから弁当を取り出しぶっきらぼうに差し出す。
「ほら」
「ん、ありがと」
 軽く礼を言って受け取ると、包みを開く。
「マジでいつもありがとう。喜多さんのおかげで僕の食生活は文明化した感じだ」
 さすがに、食のIT革命やぁー、と言うのはやめておく。
「べ、別にそんなたいしたことしてねぇからいいよ、そんなこと言われると照れんだろ」
 喜多が自分の言葉通り照れくさそうにしながら、自分の弁当のふたを開ける。
 僕も彼女にならう。
「今日もおいしそうだ」
 おせじでなく本心からそう思う。
 僕は毎日弁当のふたを開けるたびに感心してしているのだ。よくこんなに毎日毎日いろんなおかずを作れるものだと。彼女のレパートリーはたいしたものだ。
 しかし、なぜかご飯の上にはいつも粉々になった海苔がまぶしてある。これだけは毎回必ず同じなのである。梅干しやふりかけだったことはない。
 一度不思議に思って聞いてみたことがある。
 いつもご飯の上には海苔だけど、しかもいつも細かくばらばらにしてあるけど、なんか理由あるの? と。
 そのときの喜多の挙動不審ぶりはすさまじかった。
 一瞬にして顔が熱病のごとく真っ赤になり、視線は落ち着きなくあたりをふらつき、立ったりしゃがんだりした挙句、なにか言おうとしたのだが、声にならない声が出るばかりで唇がむなしく動くだけ。  その上、ぎくしゃくとした動きでその場から逃げ出そうとしたのである。
 これは面白そうななにかがある、と察知した僕はかなり問い詰めたのだが、隠し事のできない彼女にしては珍しく頑強に抵抗し、一言もしゃべろうとしなかった。
 その後も何度か尋ねてみたのだが、今も理由を教えてもらえないままだ。
「どうした桐野? なんか嫌いなもんあったか」
 僕が食べもせずに、ただ弁当を眺めているのを見た喜多が声をかけてきた。
「いや、やっぱり海苔がまぶしてあるなあと思って」
「そっ、そそそのことは言うなっつってんだろ! もう何回も約束しただろうがっ! がたがた言わずに食べろ、ほら、さっさと食えバカ!」
 喜多は顔を真っ赤にしながら、手にした弁当箱に顔をうずめるようにしてご飯を口に放り込んでいる。
 いつか絶対に聞き出してやる。
 内心で固く誓いながら、僕も卵焼きを口に入れた。うまい。
 一度、喜多が弁当を作っているところを見たいものだ。
 そう言うと、家で食事をつくってもらっているじゃないかという者が出てくるかもしれない。
 確かに、僕の家で食事を作っている姿は何度も見たし、ちょっかいもかけた。
 しかし、弁当はまた違った趣があるだろうと思うのだ。
 いくつかのお皿に分けられているおかず。それを美しく見栄えがするように丁寧に弁当箱につめていく喜多。
 それこそが美というものではないだろうか。きっと世阿弥や千利休も同意してくれるはずだ。古田織部はどうだろうか。
「――おい、桐野?」
「ん? 今日も弁当おいしいよ」
 どうやら少しぼんやりしてしまったようだ。喜多が話しかけていたのに気づかなかった。
「おい、ちゃんとあたしの話し聞いてんのか」
「ごめん聞いてなかった。喜多さんの裸エプロン想像してたもんだから」
「ああ? 裸エプロン?」
「知らない?」
「知らねぇ」
 どうやら彼女は裸エプロンを知らないらしい。きょとんとした顔をしている。
 地球に住む人類の約半分が一度は夢見る光景なのだが。それを知らないとは、まったく最近の若者はなってない。ここは心優しい僕が教えてあげるとしよう。今後知らないことで恥をかくことがないように。無知は時として罪になることがあるからな。
「よろしい。僕が教えてあげよう」
 ところがである。僕がそう言ったとたん、彼女は勢いよく首を振った。
「い、いらねぇっ!」
「なんで」
「そっ、その顔は絶対なにかたくらんでるだろ!」
 明らかに僕を警戒している。なにやら敏感に気配を察知したらしい。敏感なのは体だけでいいものを。
 ……いや、そうじゃない。新たな知識を増やしてあげようという人の親切を無下に否定するとは。
「桐野はなんかあったらすぐにあたしをいじめようとすんだからな。いい加減あたしだってわかんだよ」
「オッケー、わかったから。もう言わない。裸エプロンについてはもうなにも言わない」
「マジか?」
 珍しくあっさり引き下がった僕を、喜多が胡散臭そうな表情で見ている。
 まるで信用されてないな。まあ、確かに今までの行いを考えると疑われても仕方ないだろう。
 実際、今度実地で教えてやるなんて考えているのだから。
「ほんとに言わないよ。今は」
「いまなんつった!?」
 ぽそりと呟いた言葉が届いたのか、弁当に気を移しかけていた喜多が、ばっと顔をこちらに向けた。
 しまった。油断した。ここは三十六計のひとつ反客為主で切り抜けねば。
「そういえばさっきなにか言いかけてたのはなに?」


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