そして戦慄の土曜日が訪れた……。
 あのときは、困る喜多の顔が見たくて、つい行くと言ってしまったが、よくよく考えるとこれは大変なことなんじゃないか?
 なんといってもあの、そう、あの喜多の家に行くのだ。どんな家族が待っているのか知れたものじゃない。
 僕のような一般人が訪れていいようなところなのだろうか。
 いや、訪れてはいけないのではないか。禁断の地エウレカなのではないか。
 このままでは腕に覚えもないのに修羅の国に一人で旅立つようなものだ。もしくは東方不敗の八卦の陣に自らはまりにいくようなものじゃないか。いや、これは石兵八陣図!? むむむ……! これは孔明の罠だ! ひけい、ひけい!
 なにが、むむむ、だ。
 ああ、まずい。
 こうして現実逃避している間にも刻一刻と喜多の家に近づいている。
 くそっ。以前一度喜多を家まで送っただけだというのに、きっちり道を憶えている自分が恨めしい。
 ん?
 確かあそこが喜多の家のはずだが……誰か出てくるぞ。
 僕が喜多の家の前までやってくると、ちょうど一人の男がバイクを押しながら出てくるところだった。
 かなり背の高い――二メートル近いんじゃないだろうか――がっしりした体格の人物で、短く刈られた髪の毛が精悍な印象を与えている。
 僕はバイクにはあまり詳しくはないのでよくわからないが、ハーレーみたいなアメリカンタイプの大型で、彼の雰囲気によく似合っていた。
 バイクにまたがったところで、僕が見ているのに気づいたのだろう。僕に話しかけてきた。
「きみはもしかして桐野君か」
 深い知性を感じさせる、低く落ち着いた声音で、なんとなく圧倒されてしまう。
「はい、そうです。えっと……薫さんのご兄弟の方ですか」
「喜多源一。薫の兄だ」
 源一さんが手を差し出してきた。
 僕はなんのことだかわからなかったので、ぼけっとその手を見てしまった。
 しかし、すぐに気づいて手を握り返す。
「はじめまして、桐野修です。よろしくお願いします。珍しいですね」
「なにかおかしかったかな」
「こうやって初対面の挨拶で握手をするっていうのがです。こういうの初めてだったので」
「ああ、仕事柄外国人と接することが多くてな。ときどき出てしまうんだ。不快だったらすまなかった」
「いえ、ぜんぜんそんなことは」
 源一さんというと……確か一番上のお兄さんで自衛官だったか。
 なんとなく想像していた人とイメージが違うな。喜多さんの兄だというからもっとこう、彼女に似た感じで想像していたのだけど。
 もしかすると失礼なことを考えていると、予想外だったのは相手も同じらしい。
「いや、以外だったな。薫が家に男を連れてくるなんて初めてなんだが、きみも家に来るぐらいだからわかってるだろう? ああいう奴なんでもっと悪ぶった奴を連れてくるかと思ってたんだ」
 源一さんは興味深げに、試すような視線を僕に向けてきた。
「薫さんは素直ないい子ですよ」
 僕の言葉は彼にどんな感想を与えたのだろう。源一さんは一瞬だけ、思わず引き込まれるような笑顔を見せた。
 僕が女だったらそれだけで惚れてしまいそうな表情だった。あんな顔ができるとは、きっと男女問わず、さぞかしもてることだろう。別に怪しい意味ではない。
「そうだな。……今日は一緒に食事をするつもりだったんだが、残念なことに部下が緊急入院したらしくてな。ちょっと様子を見に行かないといけなくなってしまったんだ。また次の機会にでもゆっくり話そう。それじゃあ」
 源一さんは軽く手をあげると、エンジンの重低音を響かせながら行ってしまった。
 ……さすが喜多家と言うべきなんだろうか。
 しょっぱなからなんとなく圧倒されてしまった。
 人間として一枚も二枚も上手な相手に会ったという感じだ。あんな人が身内にいたらさぞかし頼もしいことだろう。
 源一さんと話したせいか、うっすらと感じていた緊張がほぐれた気がする。不思議な人だ。
 大きく深呼吸して気持ちを切り替える。
 僕はゆっくりとチャイムを押した。
 すぐにインターホンから声が聞こえてくる。若い少年のような声である。
 二、三やりとりを交わすと、家に入ってくるように言われた。
 ドアを開けて家に入ると、出迎えてくれたのは僕より年下の少年だった。年齢からいって彼が三男の源三君だろう。おそらくインターホンで応対してくれたのも彼に違いない。
 源三君に案内され、僕は畳敷きの客間に通された。
 喜多家は基本的に和風のつくりになっているらしい。
 足の短いテーブルと、それを囲むように座布団が置かれている。
 特に飾り気はないが、丁寧な掃除の行き届いたさっぱりした空間である。
 僕が部屋に足を踏み入れると、源三君が声をかけてきた。
「ちょっと待っててください。みんなを呼んでくるんで」
 言うが早いか、源三君が軽い足音をさせ、僕を置いて出て行ってしまった。
 仕方なく、僕は床の間の正面側、テーブルの端にある座布団に腰を下ろした。
 五分もしないうちに、廊下のほうから複数の足音が聞こえてくる。
 静かにふすまが開くと、ぞろぞろと喜多家の人々が顔を出す。
「おう、桐野。今日はわざわざ悪ぃな。ありがと」
 一人目は喜多だった。他人の家で見知った顔が出てくると、少しほっとしてしまう。
 自分では落ち着いたつもりだったが、やはり緊張が残っているのだろう。
 喜多は少し恥ずかしそうな顔をしている。やはり、家族に恋人を紹介するのが照れくさいのだろう。
 次に僕を案内してくれた源三君。おとなしそうだが、なんとなく喜多と似ている気がする。やはり兄弟ということだろう。とはいえ、その柔和な雰囲気は喜多とは正反対で、年上のお姉さんにもてそうなタイプだ。もてあそばれそうなタイプとも言うかもしれないが。
 続いて坊主頭の青年。見た目からいって、この人が源二さんだろう。気のいい兄ちゃんという雰囲気の人物だ。こちらはあまり喜多と似ていない、先に見た源一さんとほぼ同じようながっしりとした体格の男臭い感じである。ただ、こちらのほうがわかりやすそうな性格に見える。
 そして最後に中年の男性。彼が正造さんに違いない。源二さんは柔道オリンピック候補生だというが、そういったことにうとい素人の僕ですら、一目見ただけで正造さんのほうが格上な気配を発しているのがわかる。その上、テレビで見る格闘家よりも強そうに見えるというのだから恐ろしい。詳しい年齢はわからないが、僕の父親と同じぐらいの世代だろうから、すでに肉体的には下り坂のはずなのにまるでそうは見えない。
 源一さんと源二さんはお父さんに似たのだろう。あまり似ていない喜多と源三君はお母さんに似たということだろうか。
 喜多家の人々に圧倒されつつも、僕は立ち上がり頭を下げた。
「はじめまして、桐野修です」
「こ、こんにちは」
「おう、よろしく」
 挨拶を返してくれた息子二人とは対照的に、正造さんはこちらをぎろりと睨んだだけ。
 明らかに歓迎されていない。
 やはり娘の男友達に対する男親の心情というものは特別なものがあるのだろうか。


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