唾を飲み込むことすらできず、僕は瞳孔の開いた正造さんの前で、ただじっとしていることしかできなかった。
「話といっても別に大したことを聞こうというのじゃあない。ただ……いくつか質問をさせてもらって、普段きみと薫がどんな付き合いをしているのか知りたいというだけだ」
 その言葉を鵜呑みにするわけがない。
 間違った答えを返せば即、死が待っているであろうことは想像に難くない。
「付き合いといっても、僕と薫さんは正造さんが――」
「貴様にお父さんなどといわれる筋合いはないっ! 貴様のような奴に娘を嫁にやれるかあっ! 情熱思想理念頭脳気品優雅さ勤勉さ! そしてぇなによりもぉぉぉぉー! ラグビーが足りない男として未熟な貴様のようなやつにっ! 」
 僕の言葉をさえぎって正造さんがびりびりと空気を震わせるような怒声を発した。
 僕の湯飲みのお茶に漣が起こったのは目の錯覚だろうか。いや、そうに違いない。
 というか、僕は一言もお父さんなどと言っていない。
 ここは相手を刺激しないように、できる限り穏便に間違いを訂正しなくては。
「……あの、僕はそんなこと一言も言っていませんが」
 おそるおそる述べた僕の言い訳――なんら過ちを犯していないのに――はわずかながら正造さんの気持ちをなだめることに成功したらしい。
「――すまんな。そうか、言っとらんかったか。なにぶんこういうことはこちらも初めてなもので、ついつい緊張してしまってな」
 一瞬前とはうって変わった笑顔で正造さんがにっこりと笑った。しかし、血走った目がすべてを台無しにしている。
 ついついで殺されてはたまらない。できる限り早くこの場を収めて逃げ出さなければ。
「いえ、とんでもないです。それで僕になにか尋ねたいということでしたが」
 気持ちを落ち着けるためか、お茶をすすっている正造さんに話を振る。
 僕は一秒間に十回の呼吸を行って息を整え、正造さんの次の言葉を待った。
「うむ、そうだったな。さて……まずきみは薫とどこで知り合ったのかね」
「同じクラスだったので、それが知り合ったきっかけと言えばきっかけです」
「ほう、クラスメートか。薫は学校ではどうかね。まあ、無理をして不良の真似事などをするような気持ちを素直に出せない、気弱な奥ゆかしい娘だから色々と誤解されることもあるだろうが。」
 正造さんが眉間にしわを寄せ、真剣な表情で言ったことを、僕は受け止めることができなかった。
 僕はなにかとてつもない罠に嵌められつつあるのだろうか。それとも……この人は本気でそう思っているのだろうか。
 きっと秘密警察に捕らえられて、胡散臭い取引を持ちかけられたときの人間はこんな気持ちになるのだろう。
 なにをどう信じていいのかわからなくなるのだ。
「そ、その……ですね。心配、されるほど誤解されてないと思いますよ」
「そうかね」
 間違ったことは言ってないはずだ。
 喜多は誰にも誤解されていない。喧嘩っ早い、ヤンキー娘としてクラスメートどころか学校中から正しく理解されている。
 しかし、正造さんはまだ心配気な様子で、時折あごをさすったりしている。
 自分の娘をこれほど勘違いできるというのも凄いな。
「む、それできみは薫と遊んだりするのかね。例えば二人で」
 ぎらりと鋭いナイフのような光が正造さんの目に宿る。
 きた!
 くるべき質問がきたのだ。
 ここはごく自然に、やましいことなど何一つないという態度でさらりと流す。流してみせる。
「はい。時々相手をしてもらってます」
「ほう、どんなことをして遊ぶのかね」
「映画を見に行ったり、買い物に行ったり色々です」
「爽やかな付き合いということか」
 流しきれたか?
 相手に疑いを与えていないだろうか。 
「そういえば……きみは薫の手料理を食べたことがあるかね」
「はっ、はい。何度か。その――いま家に両親が居ないもので、ときどき食事を作ってもらっています。凄くありがたいです」
「味のほうはどうだったね」
「とても上手でびっくりしました。本当に美味しいです」
「ほう……そうか、わしも親ばかかもしれんが薫の料理は上手いと思う。意見があったな。で、これが最後なんだが――」
 僕と正造さんの間の空気がぐにゃりと歪む。
 まずい! 非常にまずい気配がする。
 このプレッシャー! 木星帰りどころじゃないぞ。
 助けて! 空が、空が落ちてくる!!
「しばらく前のことだが、薫が友達の家で二泊したらしく家を空けたことがあってな」
 重々しい空気の中、正造さんが一拍置き、再度口を開いた。
「まさか貴さ……きみの家に泊まったんじゃあないだろうな。……両親のいないという家に」
 ピシッ。
 僕は確かに自分の前に置かれた湯飲みにひびが入る音を聞いた。
 オービーの、いや、ダービーの気持ちが良くわかる。
 だめだ。いまはわざと名前を間違えて怒りを誘っている場合じゃあない。
 というか、これ以上の怒りなど断じていらない。
 猛烈な圧力。つぶされてしまいそうだ。
 息を吸えばひゅうひゅうとみっともない音が出てしまいそうで、深呼吸もできない。
 それでも、なにも言わないわけにはいかず、僕は全身の力を振り絞って舌を動かす。
「確かに僕の家に薫さんが泊まりました――」
 恐ろしくて正造さんの変化を確認する気すらおきない。なによりもそんなことをしていては僕は、死ぬ!
 これまでの人生でもっとも脳みそがフル回転した瞬間だろう。ディープ・ソートよりも、ディープ・ブルーよりも優れた演算能力を発揮していたに違いない。
「そして美味しい食事をごちそうになりましたでも薫さんが父親である正造さんのことばかり話すので情けない話ですが少し嫉妬してしまいました今日ようやく本物にあえて大変緊張していると同時に嬉しいです」
 一呼吸で言い終えた僕は自分がまだ生きていることを知ると、世界の素晴らしさに感動し、生命の尊さに歓喜し、すべてに感謝する歌を歌いたくなった。
 いまなら自分をナイフで刺した奴とでも親友になれる気がする。そいつと一緒に血まみれのままでフォークダンスを踊ったっていい。
「ほ……ほう。いったいどんなことを薫はきみに言ったのかね」
 なんでもない風を装って、正造さんが僕にたずねてきた。しかし、その目は一刻も早くその内容を知りたいとうずうずしている。
 作戦は成功した。

 こうなったらあとは慎重に行動するだけだ。
 僕は少しためらう振りをしてみせる。
「いや、そんなことを本人を前にして言うのも少し薫さんに申し訳ない気が――」
「いいから言ってみなさい」
 しっ。というかすかな音が聞こえた。注意深くその音のしたあたりを探ってみると、正造さんがテーブルの縁を握った音だった。正確にはテーブルの縁を圧縮した音である。ひび割れる間もなく、圧倒的な力で押しつぶされたのだろうそこは、正造さんの太い指の形にへこんでいた。
 僕は改めて自分の命が風前の灯であることを実感した。
「わかりました。ただ、正確にすべてを覚えているわけではないので、僕の言葉で伝えます。それと、僕が喋ったことは薫さんには内緒にして欲しいのですが」
「そんなことはわかっとる。男と男の約束だ。絶対に薫には話さない。さ、早く教えてくれんか」
「はい。まず薫さんは父親があまりに素晴らしすぎるせいで、普通の男には魅力を感じないというようなことを――」
 それから僕は捏造百パーセントの父親をべた褒めする娘の言葉を述べ続けた。嘘をついたことがない、という嘘のほうがまだいくらかましなほど。


進む
戻る

作品選択へ戻る