まさに今、飛び出さんとしていた怒声が、薫の口の中で溶けて消えていく。変わりに弱々しい声が唇から紡がれる。
「そ、そんなこと……」
 ねぇよ。と続けようとしたのだが、小さくなっていく声を遮って源一が会話に参加してきた。
「本当だな。一、二、三、四、五、六。一個多いぞ」
「だったら余ってるやつ俺が朝飯に食うよ」
 源二が手近な弁当箱に手を伸ばした。
「ちょ、待てボケジ。それは余りじゃねぇから食うなっ」
 源二の指が弁当箱に届こうという寸前、ぎりぎりで薫がそれを救い上げた。
「ああ? だって余りだろうがよ」
「文句あんのか」
 不満そうに薫を見上げる源二だったが、妹の殺意のこもった視線に黙って自分の味噌汁をすすることにする。
 料理人の機嫌を損ねると、その後の献立において多大な被害をこうむることがわかっているからだ。
 そのやりとりを眺めていた源一がポツリと呟いた。
「男だな」
「まさかぁ。姉ちゃんに男ー?」
 兄の言葉を笑い飛ばそうとした源三は、姉を見て凍りついた。
 薫が頬を薄く染めて、恥ずかしそうにうつむいてしまったからである。
 お、おらぁ見てはいけないものを見てしまっただ。そんなフレーズが源三の頭の中でぐるぐると回転した。
 十数年にわたる彼の人生の中で、姉が赤くなるのは怒り狂っているとき以外にはなかった。しかし今、初めてそれ以外を目撃して、彼の脳は現実の処理を放棄してフリーズしてしまったのだ。
 正造が茶碗を手にしたまま立ち上がる。
「おい! どういうことだそんな話パパは聞いとらんぞ。……まさか! お前昨日、一昨日とその男と一緒にいたんじゃないだろうな!」
 わなわなと震え、絶望的な想像――正造のみにとっての――にぎょろりと目を見開いた。
「え、なに薫に男ができたの?」
 きょろきょろと源二が家族を見回す。
「暴走族なら許す、喧嘩もかまわん! だが男は許さん! おい! まさかもう過ちを犯したんじゃなかろうな! パ、パパは許さんぞ! 一度その男を連れてこい! ラガーマンで、最低でも一回は閣僚経験がないと許さんぞ!」
 そんな人間は森元首相ぐらいだ。正造は森喜郎が娘の恋人でいいのだろうか。
 しかし自分の言葉でヒートアップしていく正造に正論は通じない。言動がどんどんむちゃくちゃになる。
「今日はもう仕事を休む! わしの薫に近づいた薄汚い虫けらを叩き潰してくれる!」
「誰がパパだよ。気持ち悪いぞオヤジ」
「黙れバカモン! 勝手に育つお前らと違って薫はわしの宝なんだ」
 源二がたしなめるが、正造にはまるで効果がない。
「薫、相手はどんな奴だ。年上か、同い年か、年下か、学校の奴か、それ以外か、近所に住んでるのか……」
 言い募る父親に、薫の我慢の限界はすぐに訪れた。
「死ねっ!」
 渾身のこぶしを父親の顔面に叩き込む。
 ……が、ダメっ……!
 正造の顔はわずかに動いただけでダメージのあったそぶりすらない。
 ぎょろりと目玉を動かすと、反対に顔でこぶしを押して再び薫のほうを向いた。
「一度そいつに会わせろ。なにもしないから」
 目を見るまでもなく、明らかに嘘をついている。
 薫は父を力でねじ伏せるのをあきらめた。
 かわりに自分の弁当と、もうひとつ――自分のものよりも大事な弁当――にフタをすると、それを持って台所の出入り口にダッシュした。
 そのままの勢いで階段を駆け上がり自分の部屋に逃げ込む。
 弁当箱を丁寧に机の上に置くと、大きなため息をついた。
 階下では父親がまだなにか叫んでいる。
「……こんなとこに桐野連れてこれるわけねぇだろ」

 一方、台所では。
「あ、あれ? ね、姉ちゃんが……いない?」
 ようやく再起動した源三がきょろきょろと周囲を見回した。
「あ……ああ! 夢だったんだ。やっぱりおかしいと思ったんだ姉ちゃんに彼氏なんて。あんなのと付き合えるのなんて鬼武者か呂布ぐらいだよ。ねぇ、源二兄ちゃん」
「え? いや、いるっぽかったぞ、あの反応。なあ兄貴」
「薫もそういう年頃ということだ」
 重々しくうなずくと、源一が食後のコーヒーをすする。
「わしは認めんぞっ!」
 父親の魂の叫びを聞き、とうとう源三も現実を受け入れざるを得なくなった。それでも、まだどこか信じられないといった風に呟く。
「夢だけど、夢じゃなかった……!」

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