一時間後、誰の目にも明らかなほど憔悴し切った美春が帰って来た。
 なにがあったのか気になるが、あまりの姿に誰もが声をかけるのを躊躇っている。
「……すまないけれど、誰かコーヒーを貰えるかしら」
 美春の言葉は空しく沈黙に吸いこまれていった。
 誰もが異様な雰囲気の中で動けずにいた。と、山中が無礼にも自分が飲んでいたカップを差し出す。
 美春はそのことを怒りもせずに、一口コーヒーを飲むと、感謝と共にカップを返した。
 それを受け取りながら、山中が沈黙を破る。
「なにがあったんですか?」
 そして、その場にいる全員が今一番知りたいことを口にする。
「なにがあったかですって?」
 美春が少し声を荒げて応えた。
「そうね、みんなにも説明しないと。ちょっと仕事中断してもらえるかしら」
 微かに震える声で部下に呼びかける美春。
 しかし、そんな呼びかけをするまでもなく、美春が戻ってきた時点で誰もが仕事を放り出していた。
 部下の注目が集まるのを待つというより、自分が落ち着く時間が欲しかったのだろう。少し間を置くと、美春はゆっくりと口を開いた。
「……発注にミスがあったらしいの。そのせいで商品が間に合わなくなって、明後日のイベントにはもうとても間に合わなく……」
 声の震えは徐々に大きくなり、最後の方はもう言葉になっていない。
 今にも倒れそうな美春に部下達から矢継ぎ早に言葉が浴びせられる。
「ちょ、ちょっと待って下さい! そんなバカな!?」
「そうです!そんなわけないですよ!」
「なんとか言って下さい部長!」
「そんなミスがあるわけないですよ。何度も確認したし、最後には部長自らがチェックしたじゃないですか!」
「このプロジェクトがそんなつまらないミスで終わりですか!?」
 部下の悲鳴を聞きながら、美春は唇を震わせてただ黙っている。
 美春には今回の件が決して自分達のミスなどでは無いことがわかっていた。
 間違い無く、自分を疎ましく思っている上司の一人の仕業に違いない。そうでなければなんの関係もない上役からそのような発注ミスの話を聞かされるわけがない。
 女だてらにこの性格だ。敵が多いことは知っていた。
 それでも利益をあげれば、頑張っていれば、誰も文句は言えないと思っていた。
 しかし……ここまでされる程、自分は憎まれていたのか。
 おそらく今回の失敗で自分は首になってしまうだろう。数十億の損失だ、間違い無い。
 他人に陥れられて首になることが悔しかった。
 自分についてきてくれた部下に申し訳無かった。
 美春は歯を食いしばり涙を堪える。
「……ごめんなさい」
 ぽつりと呟いた瞬間、耐えきれなくなった涙が一粒零れ落ち、美春のハイヒールのつま先に染みをつくった。
 それを見てわめき散らしていた部下達も一斉に押し黙る。
 絶望的な空気が部屋中に蔓延した。
「……こんなことで」
 誰かがうめくと、糸が切れた操り人形のように、がくんと椅子に崩れ落ちた。
 その横の人物はなにも言わずに、黙って足元を見詰めている。
 それぞれがそれぞれのやり方で、耐えていた。
 そんな中、出し抜けに場違いな明るい声が室内に響いた。
「まだ大丈夫ですよ。給料分働きましょうよ」
 美春はぽかんとした顔で声の主である山中を見詰めた。
「……なんですって?」
 かすれた声で尋ねる。
「まだ今日と明日。それに当日の午前もあるんだし、なんとかなります」
 呑気な声で返事が返ってきた。
 その落ち着いた声はは美春の神経をひどく苛立たせた。
「なんとかなるわけ無いでしょ! たった二日でなにができるというの!? 今更どうにもならないわ! もうこのプロジェクトはおしまいよ!!」
 美春が感情を剥き出しにしてわめき叫ぶ。今まで怒ったことはあったが、あくまで理性的にやってきていた。部下の前にこんなみっともない姿を晒すのは初めてだった。
 事態についていけず、混乱が辺りを支配する。
 冷たいキャリアウーマンの仮面が割れて、黒山美春という女性が感情のままに手近の机を叩いた。数人の部下が肩をびくりと震わせる。
「こんなつまらない妨害に負けて諦めるんですか?」
 美春を見据えて山中が静かに、しかし力強く言う。
 美春が口にしていないはずの何者かの妨害のことを山中は知っているらしい。
 しかし、それに気付くことなく美春はぼろぼろと涙を零す。
 絶望的な本人の意思とは関係なく、涙は美春の整った顔を儚く輝かせていた。
「あなたに何がわかるの!? 諦められるわけ無いじゃない! 一番悔しいのは私よ!! 半年も前から準備してきて! こんな結果なんて納得いくわけない!!」
 ぱしん! 鋭い音が混乱した場を切り裂いた。
 美春の頬へ、山中が平手を打ったのだ。
 頬を抑え、うつろな目で自分を見詰めている美春に向かって山中が大声で叱咤する。
「だったら諦めるな黒山美春!」
 その声を聞いて、美春の目に僅かに光が戻る。
「まだ時間はあります。なんで最後まで頑張らないんです」
 言葉遣いをあらためて山中が美春に優しく語りかけた。
「……そうね。あなたの言う通りだと思うわ」
 完全に少し前の鋭さを取り戻して、美春は山中を見詰め返す。
「ありがとう」
 泣き止みはしたが、いまだ潤んでいる瞳で見詰められて、山中はどぎまぎとうろたえた。
「い、いえ、そんな。失礼なことをしました」
 美春は顔を上げにっこり微笑むと、凛とした声で呆然と成り行きを見守っていた部下達に語りかける。
「ごめんなさい、取り乱したところを見せました。いまからでも諦めないで少しでもなんとかしようと思います。こんな上司だけどついてきてくれる人、私を助けてください」
 言い終えると、深々と頭を下げた。
 プライドの高い美春が助けてくれなどと言うと思っていなかった部下達は、一瞬驚き、次いで歓声をあげた。
「なにを言ってるんですか。やるに決まってますよ!」
「部長にそうまで言われて助けないなんて男がすたります!」
「あら、女だってすたるわよ!」
「ここまで頑張ったんですからやるだけやってみましょう!」
「大丈夫ですって、あの黒山美春のプロジェクトですよ!」
 沈痛な雰囲気が、がらりと変わり今まで以上の活気が溢れ出した。
 今度は喜びの涙を目尻に浮かべながら美春は部下に恵まれたことを感謝した。
「ありがとう、みんな。でも今からが大変よ。頑張りましょう」
 その言葉が合図になり、それぞれが忙しく動き始めた。
 ある者はカバンを持って部屋を飛び出し、ある者は電話をかけまくり、また別のある者はパソコンを操作し始めた。
 誰もが食事をすることも忘れ、不眠不休で、自分の限界以上の力を出し働いた。
 中でも山中の働きは凄まじいの一語に尽きた。
 今までの勤務態度が嘘だったかのように猛烈な勢いだった。
 美春が驚くほど的確に指示を出し、自分も動き回ったかと思うと、どのようなコネがあるのか不思議なぐらい幅広い人脈から様々な人間に連絡を取り、様々な事態に対処した。
 最後には美春までが山中の指示で動いていたようなものだ。


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