イベント当日。午前九時。
「……はい。まことにご迷惑をおかけしました。本当に今回の件では感謝のしようもございません。ありがとうございました。はい……はい。ありがとうございます。それでは失礼いたします」
 全員が静かに注目する中、美春が受話器を置いた。そして大きく息を吸いこみ、ゆっくりと吐き出した。
「……お疲れ様、みんな。なんとか間に合ったわ。本当にありがとう」
 美春が心からの感謝を述べる。少しやつれているものの、その美貌は損なわれるどころか、妙な色気を漂わせていた。
 部屋中で喜びの声が聞こえ、お互いの健闘を称え合っている。
 山中が軽口を叩いた。
「なんとかどころか、イベント開始まであと四時間も余ってるじゃないですか」
「違うわ、山中。もう四時間しかないのよ。まだやることは山ほどあるわ」
 時間が無いという言葉とは裏腹に、美春は不適な笑みを見せる。
 幸運にも凛々しい笑顔を目にすることのできた数人の部下は、そのおかげで疲れが吹き飛んだ。
 自分の魅力の及ぼした結果に、まるで気付かないまま美春が言葉を続ける。
「イベントはまだ始まってもいないわ。今日は休憩なんてできないと思うけれど、みんな頑張りなさい!」
 一番疲れているのは自分だろうに、気丈に部下を激励する姿は、戦女神のようだった。

 その日の夕方。無事にイベントも終了し、撤収作業の指揮を取っていた美春のもとに社長以下重役達がやって来た。
「良くやってくれた黒山君」
「いえ。任された仕事を果たしただけですから」
 社長の言葉に美春が頭を下げる。
「いやいや、そうは言っても君ほど仕事のできる人物がわが社に何人いることか」
「ありがとうございます」
 再び深く礼をし、姿勢を正すと美春は重役の一人をきつく見据えた。
「ですが私だけの力ではありません。支えてくれた部下達のおかげです。その上こちらの井沢専務には大変お世話になりましたから」
 そう感謝の言葉を口にした美春に何人かの重役は目を見張った。
 井沢は美春のことを、女が仕事にでしゃばるな。と毛嫌いしていた人物だったからだ。それゆえ二人は犬猿の仲として社内で知られていた。
 礼を言われた当の本人、井沢はというといきなり挙動不審になった。
「そ、そうかね、礼にはおっ、及ばんよ。く、くっ黒山部長もよくやったた」
 しどろもどろになって、せかせかと手にしたハンカチで額を拭う。
 その様子を見て察しのいい幾人かは、井沢が何らかの妨害工作を行なったことに感づいた。
 美春の眼鏡のフレームがキラリと光を反射した。
「ぬけぬけと! よくもそんなことが言えたわね!!」
 ピシャリと美春の平手が井沢の頬に突きささる。室内に響き渡った音に撤収作業をしていた社員達の手が止まり、一斉に目が音のした方に向けられる。
 突然のことに重役達は誰も美春の無礼を咎められず、事態を見守ることしかできなかった。
「今後、私に、私のチームに今回のようなことをなさったら、どんな手段を取ってもあなたを潰させて頂きます!」
 激しい口調で、へたり込んでしまった井沢に怒声を浴びせかける。そのまま他の重役達に艶然と微笑み、失礼します。と、一礼して作業に戻っていった。
 この話は後に、この事件を目撃していた社員達によって社内に広められ、美春の鉄の女伝説の一翼を担うことになる。

 イベントの翌々日、プロジェクトチームの面々は盛大な打ち上げを行なっていた。
 酒と自分達の成し遂げたことに酔い、大騒ぎをして。
 一次会が終わり、そのままの勢いで二次会になだれ込もうとしたとき、美春はそれを丁寧に辞退し、打ち上げの幹事に少なくないお金を手渡すと言った。
「ごめんなさい。ちょっと片付けないといけない書類があるのを思い出したの。みんなは私の分も楽しんでちょうだい」
 引きとめる部下に笑顔で謝りながら美春は去ってしまった。
 麗しの上司がいなくなったものの、部下達の熱気は冷めることなく、大声で騒ぎながら二次会の会場へと流れていく。

「……ふぅ」
 美春は誰もいない職場に戻り、暗い部屋に明りを灯す。
 自分のデスクにつくと美春は大きく溜息をついた。シャツのボタンを一つ……二つ外すと首筋をさする。
 背もたれに体重を預けだらしない格好で、ギシ。と椅子を軋ませる。再び大きく息を吐くと、そのままぼんやりと窓の外を見詰めた。
 疲労だけが全身を包んでいる。
「私はなにをしているのかしら……」
 いつもなら今ごろは疲労と共に心地良い達成感を感じているはずなのに。
 眼鏡を外して目元を指で押さえると、くにくにと軽くマッサージをする。
「女だからって舐められないように頑張ってきたのに、そのせいで妨害されるなんて……。挙句の果てに部下の前で泣き喚いて……」
 努力すればするほど敵が増えて、陰口を叩かれ、女としても見てもらえない。社内の人間関係は良くて上司と部下、他はライバルで頼れる同僚なんてどこにもいない。
「疲れたな……」
 会社に向かう途中で買っておいたメンソールの煙草を取り出すと、乱暴にパッケージを開け、一本口に咥える。
 メンソールの香りが鼻先を掠めたところで気がついた。
「あ……火がない」
 ここ数年、禁煙していたせいでライターを持っていないことを忘れていた。
 マッチでもいいから火を点けるものがないかと引出しを乱暴に開け閉めしたが、そんなものが出てくるわけもない。
「なにをしてもだめね」
 美春は寂しげに呟いて机に突っ伏した。
「火ならお貸ししますよ」
 突然自分に降ってきた言葉に驚いて頭を上げると、そこには男が立っていた。
「なっ! 誰かいるの!?」
 自分しかいないと思っていたところに、予想外の侵入者が現れたせいであたふたしながら眼鏡を掛ける。自分の心臓の音が聞こえるほどうろたえながら、美春は乱入者が山中であることを知った。
「山中! な、なんであなたがいるのよっ?」
 うろたえる美春を尻目に、山中は行儀悪く同僚の机に腰掛けながら話しかけてきた。
「部長って目、悪いんですか? 部屋に入ってもなんの反応もなかったんで無視されてるのかと思いましたよ」
 美春の問いには答えず勝手なことを喋っている。
「目はあんまり良くないけど、気付かなかったのは考え事をしてたせいだと思うわ。……そうじゃなくて、どうしてあなたがここにいるの? 答えなさい」
 誤魔化されそうになって、ついつい美春は詰問調になってしまった。
 それを気にした様子もなく山中は相変わらずの呑気な口調で応える。
「いやあ、明日ちょっと用事があるもので二次会は遠慮させてもらいました。で、ちょっと忘れ物したことに気付きまして、取りに来たんです。そしたら部長がいたわけです。部長こそ書類は片付けなくてもいいんですか? あ、火どうぞ」
 美春は山中が差し出したライターに顔を近づける。その動きを見届けてから山中は脇にあった灰皿を美春の前に差し出した。


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