「……もう……疲れたわ」
 今までの絶叫とは一転して、言葉を搾り出すと、美春はずるずるとその場にへたりこんでしまった。
 そのまま、一筋、頬に涙を流すと、うつろな顔で身じろぎもしない。まるで抜け殻のようになってしまった。
 こんな姿になられるのなら、まだ泣き喚かれるほうがましだった。
 数日前に見た泣き顔よりも、涙の量は少なかったが、今のほうが遥かにつらそうだと山中は思った。
 なんとか誤解を解き、慰めたかったが、なにを言っていいかまるで思いつかない。ただぼんやりと黙って、今にも消えてしまいそうな自分の上司を見下ろす。
「……あの」
 結局、なにもいい言葉は思いつかなかったが何かしたくて一歩踏み出し、美春の肩に手を伸ばす。
 あと一歩で、というところで美春がのろのろと立ち上がった。
 伸ばした手を戻すこともできずに、山中は美春を見ている。
「……ごめんなさい。取り乱して自分の能力不足を棚に上げてあなたをなじったりして。ちょっと色々考えちゃって」
 お酒も入ってるしね。そう言うと無理やり笑顔を作る。
 あまりに痛々しい笑顔で見ていられない。山中は思わず目を逸らした。
「いえ……そんなこと」
「本当にごめんなさい。あとで缶ぶつけちゃったとこ見せてもらえるかしら。手当てしないと」
 美春は重ねて謝ると、くるりと背を向けてデスクの上の煙草を手に取ろうとした。しかし手が震えているのか、掴んだと思ったら指から零れ落ちてしまう。
 山中の位置からは美春の顔は見えず、取りこぼされて転がるタバコが見えるだけだ。
 表情がわからなかったが、きっと、なんの感情も現していない。きっと先程の抜け殻のような顔をしているのだろう。と山中には妙な確信があった。
 何度か繰り返されるその光景を見ているうちに、山中は心の中に我慢できないなにかが沸きあがってくるのを感じた。
 そして、そのなにかに突き動かされるまま、背を向けている美春を後ろから抱きしめた。
 以外、と言っては失礼か。山中は美春の華奢な腰に驚いた。こんな細い体で一人きりで耐えていたなんて。
 美春が身を固くするのが抱きしめた腕から伝わってくる。
「山……中?」
 自分への呼びかけを無視して黙ったまま、腕に力を込める。
「離しなさい山中」
 振り向かず、厳しい口調で命令する美春。しかし、山中は離そうとしない。
「……離しなさい」
 怯えるような震える声で言う。
「嫌です、離しません」
 ようやく山中が言葉を発した。
「お願い……離して……」
 それはもはや命令ではなく懇願だった。
「少しは自分以外の人間を頼ってください。お願いします」
 上司を包み込み、髪の毛に顔を埋める。
「優しくしないで。よけいに惨めになるわ」
 そのまま体を預けてしまいたい自分に逆らって、美春は自分を抱きしめている手を振り解こうとする。
 今の美春にはそれだけの動作がひどくつらかった。
「こんなときに言うのは卑怯かもしれないですが、もう我慢できません。部長。好きです」
 美春の体がびくりと大きく震える。
「……年上の女をからかわないで」
 山中の決死の告白に返ってきたのはあくまで上司を装った、冷たい声だった。
 それを無視して山中は言葉を続ける。
「最初はなんとも思っていませんでした。社長命令だったからチームに入っただけです。でも、必死で頑張る姿を見ているうちに、だんだんあなたを追いかけている自分がいました。 つらいこともあるだろうに僕達部下にはそれを見せず、気丈に振舞っているあなた。一人遅くまで残って仕事を続けるあなた。成果が上がったときに少し照れ臭そうに微笑むあなた。不器用だけど部下思いのあなた。 からかってなんかいません、僕はあなたが好きです」
 そこでいったん言葉を切ると、ゆっくりと息を吸う。喉がざらついて声が出ない自分にイライラする。
「僕があまり好かれてないことは知っています。力を隠すようなまねをして、自業自得ですね。だから、僕を頼ってくれとは言えません。でも、誰でもいいですから……頼る相手を見つけてください。傷付けられたまま一人で立ち続けるあなたを見ているのは、つらすぎます」
 なんの反応も示さない美春。山中はゆっくりと手を解くと、かすれた声で失礼しますと言った。そのまま立ち去ろうと美春に背を向け、歩き始めたとき。
「どうして……」
 美春の声が背中ごしに聞こえた。
「どうして、僕に頼れとは言ってくれないの……」
 山中はぴたりと歩みを止めた。それでも振り返ることができない。
「……僕にはその資格はないですから」
 きつく拳を握り締めながら、泣きそうな顔
で呟いた。山中は今の顔が美春に見えないのが責めてもの救いだと思った。 「資格なら……あるわ。……私もあなたが好きだもの」
 予想外の言葉に、山中は驚いて振り返った。そこには自分
以上に驚いている美春がいた。  どうやら自分の言葉に驚いているらしかった。
 美春はもはや、年上の上司でも、キャリアウーマンでも、冷たい男勝りの女でもなかった。ただの黒山美春が立っていた。
 それに構わず、山中は駆け寄ると今度は正面から美春を抱きしめる。突然のことに笑顔もつくれない。
 美春も人形のようにただ山中に抱き締められた。
「本当ですか? ずっと嫌われてると思ってました」
「私も気に入らない男だと思っていたわ」
 え? という顔を山中がする。つい先程の言葉とまるで矛盾する。
「でも、今自分で言って気付いたの。私はあなたが羨ましかったのよ、きっと。仲間と楽しそうに軽口を叩いているあなた。職場の雰囲気に気を使ってくれるあなた。仕事以外に楽しいことがあると言ってはばからないあなた。私には無いものばかりよ。だから羨ましくて、羨ましすぎて、嫌おうとしたのね」
 棒立ちのまま自嘲の笑みを浮かべ、哀しそうにする。
「部長……」
「私はこんな生き方しかできないわ。意地を張って、虚勢を張って。こんな扱いづらい女だけどそれでも構わないの?」
「構いません。そんな部長だから好きになったんです」
 ようやく山中の顔に笑顔が現れる。
「そう……ありがとう」
 そのときになって初めて、美春からも山中の背に手がまわされた。
 美春が山中の胸に顔を押し付ける。
「……私もあなたが好きよ」
 美春もようやく無表情な人形ではなくなり、今までの人生で一番優しく微笑むことができた。
 そのまま、二人はただじっと抱き合っている。互いの温もりを感じながら。
「部長」
 山中が美春の耳元で囁いた。
 吹きかかる息のくすぐったさを感じながら美春は顔を上げた。
「目、閉じてください」
 言われるままにまぶたを下ろし、唇を僅かに開いて、美春は緊張しながらそのときを待った。
 しっとりと濡れた唇と、長いまつげの先にかすかに残っていた雫に引き寄せられるように、山中は顔を近づけた。


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