六月。世間ではジューンブライドなどと言って結婚のシーズンであるが、同時に新入社員が五月病も乗り越え、会社に慣れ始める頃合でもある。
 つまり、会社にとってはようやく新しい歯車が機能し始める季節ということで、部下を持つ上司にしてみればようやく安心して仕事に打ち込めるようになる次期のはずなのだ。
 しかし、ここにいる一人の部長にとってはそうではなかった。
 部長の名前は黒川美春。三十二歳という若さの上、まだまだ男女格差のある社会において、女性にもかかわらずそれだけの地位にいる優秀な人物である。
 かつては氷の美女と陰口を叩かれていたが、最近ではそんな声も聞かれなくなっている。
 本来なら順風満帆といえるだろう。
 そんな彼女の悩みは、その三十二歳と言う年齢と一人の部下についてだった。
 数ヶ月前に大プロジェクトを成功させた彼女は、その引継ぎを終えた三月に十四人からなる新しいプロジェクトチームを立ち上げた。
 本来ならば彼女自身が選別した人材のみでチームを構成したかったのだが、重役たちの政治が絡んだ結果、美春の望んでいない人間を数人、チームにいれるはめになった。
 それだけならば美春も悩まずにすむ。自分の思惑がすべて通るとは思っていなかったし、幸いにもその人物たちは仕事のできる人間だったからである。
 ただ、そのうちの一人が美しい女性で二十四歳という年齢でなければ、だが。
 美春が眼鏡に手をやりながら書類に目を通していると、デスクの前ではここ最近よく見る光景が展開されていた。
「山中さーん。これどうしたらいいですか」
 まだ初々しさの残る女性が、パソコンを操作している山中に声をかけた。
 彼女が美春の悩みの種、柿崎由美である。若さに溢れた美しさの持ち主で、綺麗と言うよりは可愛いというタイプだった。
 それがいま、美春の目の前で彼女の部下の一人、山中にくっつくようにして仕事のことを相談している。
 山中は以前、仕事で大失態を犯すところだった美春の窮地を救った男で、それをきっかけに、美春と付き合うようになっていた。
 だが、部下と上司が付き合っているとなると、他の部下に対して示しがつかないし、ヒイキしているなどと色眼鏡で見られかねないため、二人は恋人同士だということを隠していた。
 山中は美春を救った際の猛烈な仕事ぶりから、それまでの彼が猫をかぶっていたことがばれてしまい、周りの評価が一変した。一気に社内の有望株になったのである。
 それだけならばなにも問題はないのだが、なかなかに爽やかな顔立ちと、柔らかい物腰で社内の女性たちからの人気も急上昇した。
 そこで、美春と山中の付き合いを隠している弊害が現れた。
 女性社員から山中へのアプローチが激増したのである。
 その中で、もっとも美春の不安を煽るのが、目の前で自分の恋人にまとわりついている由美だった。
 美春の目つきが鋭くなる。
 周りにいた彼女の部下たちは、なにか書類に不備があったかとびくびくしているのだが、実際はまるで彼らに関係ない。
 たんに、美春は恋人に自分以外の女がまとわりついているせいで不機嫌になっただけである。
 はたから見ていて、二人は年齢も近く、お似合いのカップルに見えた。それに苛立ったのだ。
 山中は少々複雑な事情で会社的には二十七歳だが、実際には二十二歳。自分とは十歳も離れている。
 どう考えても、彼には自分よりも柿崎由美のほうがふさわしく思える。
 山中は自分を愛していると言ってくれるが、美春には自分がそれにふさわしい人間だとは思えない。
 驚くべきことに、美春は女としての自分にまったく自信を持っていなかった。
 はたから見れば、とびきり美しく、スタイルも抜群。さらには頭脳明晰、仕事でも成功しているという完璧な女性なのだが、本人はこれまでの人生から自分は男性にはもてないと思い込んでいるのだ。
 山中と付き合うまでの彼女は、あまりに美しすぎることと、愛想のない態度、優秀さなどから、周りの男性から高嶺の花として眺められるだけ存在だった。
 美春があまりに完璧に見えるせいで、たいていの男に自分とはつりあわないと思われてしまっていたのである。
 その結果、彼女に言い寄る男など出現せず、美春は自分が異性として見られない存在なのだと思い込んでいた。
 事実はまるで逆なのに、人間とは奇妙なものである。
 もし仮に美春が、できるだけ柿崎由美とイチャイチャしないで欲しい、と素直に山中へ言えば、彼は笑って自分が美春以外の女性に興味がないということを伝えようとするだろう。
 しかし、前記の様な理由から、美春にはそんなことを言ってもらえる自信はなかったし、なにより泣き言はプライドが許さなかった。
 その結果、彼女の美貌を時折嫉妬の色が掠めることになる。
 そして、彼女の怒りの理由のわからない部下が不安にかられることになるのだ。

 定時を二時間過ぎたころ、美春がパソコンの電源を切った。仕事に一区切りついたのである。
 いくつかの資料と書類を丁寧に鞄にしまう。
「それでは、明日から三日間、金曜日まで私と若木さんはいないけどしっかり頑張るように」
 席から立ち上がると、ビジネスバックを片手に美春が室内を見回す。
 残っていた社員から、はい、という返事が返ってくるのを満足げに聞きながら、美春はドアに向かっていく。
「あ、部長。帰るんだったら僕ももう帰るんで、駅まで一緒に行きませんか」
 山中がばたばたと手にした書類をまとめてカバンに詰め込みながら美春に声をかける。
「かまわないわよ」
 嬉しさを押し殺しながら、美春があくまで上司と部下という関係の範疇に収まる程度に柔らかな笑顔を見せた。
 その微笑に、まだ残っている男どもがため息をつく。半年ほど前の彼女からは想像もできない優しい表情である。
 山中の向かいにいた男が、書きかけていた書類を放り出し、慌てて席を立った。
「お、俺ももう帰るのでご一緒します」
 美春はちらりと男に顔を向けた。
 かつかつとヒールを鳴らして男のデスクに近づいていく。
「ダメよ久居クン」
 デスクに鋭い視線を送りながら、美春がぴしゃりと拒否する。
 別に山中と二人きりで帰りたいからというわけではない。その気持ちがまったくないかというと、それはそれで嘘になるが。
「まだこの書類が終わってないじゃない。きちんと今日中まとめておいてもらわないと」
 久居は情けない顔でしぶしぶ席に戻った。
 すると、それと入れ替わりに今度は柿崎が机から離れ、美春のほうに向かってくる。
「じゃあ、あたしが久居さんの変わりにお供します。あたしのほうはもう全部終わってますから」
 にっこり微笑みかけられて、美春はこの年下の女性が自分と山中の関係を知っているのではないか、その上であえて二人の間に割って入ってきたのではと、思わず疑ってしまった。
 しかし、それはおくびにも出さずに細い顎を上下させる。
「そうね。では行きましょうか」
 美春の言葉をきっかけに、三人は部屋を出て行った。
 最後に出て行った山中は残っている男どもにわざとらしく、お先に失礼します、と頭を下げた。


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