「くそっ、山中の野郎上手くやりやがったな。両手に花だ」
 お供を断られた久居がだらしなく椅子に沈み込んで愚痴る。
 彼は社内でも随一の美春ファンである。社内に流通している美春の写真――もちろん美春本人は存在を知らない――の流出源は彼ではないかと言う噂もある。
「お前だって上手いことやっただろう」
 久居の斜め向かいにいた男がコーヒー片手に笑顔をつくる。しかし、目だけは笑っていない。
 大工義則。彼は美春崇拝原理主義異端派で、美春にクン付けして名前を呼ばれることに至上の幸福を覚えるという歪んだ人物である。しかし、そのことは彼しか知らないし、仕事はきちんとでき、人当たりも悪くないため、評判は良い。
 その大工が久居を呪うように言う。
「クン付けされて」
「なに馬鹿なこと言ってんだ。あんなの全員だろ」
 さらに頭に白髪が混じった男が雑談に加わってきた。
「いや、私は呼ばれてないよ。しかし、あれは学生時代を思い出すな。先生に名前を呼ばれてるようで」
「江花さんもそう思いますか」
 すぐさま大工がどこか恍惚とした表情で江花にせまる。
「でも私は年上だからさん付けなんだよ」
 そう言って笑いながら江花が席を立った。それじゃ私もお先に、そう言うと片手をあげ、部屋を出て行く。
 去っていった江花を見送りながら大工が首をかしげた。
「しかし……いつから部下をクン付けするようになったのか。昔は呼び捨てだったと思ったが」
 
 会社の出入り口の前、受付のあるあたりまでやってきたところで、美春が足を止めた。
 それに気づいた山中と由美も話を中断して立ち止まる。
「どうかしました?」
 怪訝そうにたずねる由美に愛想笑いを浮かべると、美春が口を開いた。
「……ごめんなさい。少し忘れ物をしちゃったみたいだから、先に帰ってもらえるかしら」
 そう言うと、美春は山中たちの返事も聞かずにエレベーターのほうに向かっていく。
「あ、部長」
 軽くあげた手をどうすることもできずに、美春を呼んだ山中の声がロビーに消えてしまう。
「山中さん。部長もああ言ってることですし、先に行きません?」
 本当は美春を待っていたい山中だったが、そんな不自然なことをするわけにもいかず、仕方なく由美とともに駅に向かう。
 途中、色々な話をふってくる由美に生返事で応えていた山中は、駅に着き、向かう方向が違う彼女と別れてすぐに電話を取り出した。

 一方の美春は少人数用の会議室に一人でいた。
 片付け忘れられていた灰皿を机のすみに見つけ、引き寄せる。
「ダメね。こんなことじゃ――」
 美春は自分がタバコを吸いたくなるのは、よほどストレスが溜まったときだということを知っている。
 わかってはいたが、会議室に来る前によった自販機で買ったタバコの封を開けてしまう。
 タバコのフィルターに唇が触れ、口紅の色がわずかにつく。
 ライターを鞄から取り出そうとすると、すぐそばにあった携帯電話がブルブルと震えだした。
 液晶には山中の名前が表示されている。
 素早くタバコに火をつけると、深く煙を吸い込んで、胸のもやもやも一緒に出て行ってくれるよう願いながらゆっくりと吐き出す。
「もしもし」
「あ、美春さん。創平です。いまさっき本当に忘れ物したんですか」
「したわ。してなかったら私はなんのために戻ったの」
 まったくの嘘である。
 美春は忘れ物などしていない。
 自分がひどく場違いな気がして、いたたまれなくなって逃げたのである。
 同年代の二人が楽しげに話しているのを見ていられなかったのだ。自分は邪魔をしているのではないか、そう思ったのだ。
 もちろん美春の被害妄想である。
「だったらいいですけど……なんか最近僕のこと避けてませんか」
 山中の言葉にぎくりとする。
 くわえていたタバコの炎がやけに赤く見える。
「避けてないわよ」
「本当ですか」
「プロジェクトを立ち上げたばかりで忙しいだけよ。同じチームで働いているのだからあなたにもわかるでしょう」
 こういうときに顔を見られないのはありがたい。
 山中は誰にも破られたことのない美春のポーカーフェイスを、いともたやすく見破ってしまうからだ。
 テレビ電話なんて普及させてたまるか。まるで関係ないことを彼女は考えた。
「用はそれだけ?」
「…それだけです」
 納得しかねているのだろう。山中の声は硬い。
「だったら出張の準備もあるし、忙しいから切らせてもらうわ」
「あ、ちょっと――」
 なにか言いかける山本を無視して、美春は電話を切ってしまう。
 手にした携帯電話をじっと見つめていると、すでに長くなっていたタバコの灰が机の上に落ちた。
 それを掃除する様子もなく、美春はまだだいぶ残っているタバコを灰皿に押し付け、二本目に火をつける。
 それから、三本目を吸い終えて、ようやく美春は会議室を出て行った。


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