翌日、山中はイライラを押し殺しながら仕事をしていた。
 イライラの原因はもちろん美春である。
 あの人は仕事ではあんなにはっきりしてるのに、自分のこととなるとまるで子供みたいにわけがわからなくなるから。
 ……それも可愛いんだけど。
 惚気混じりに考えていると、由美が声をかけてきた。
「山中さーん。この件のここの数字どうしましょう」
 山中は内心でため息をつく。
 あの人のことだから、きっと柿崎さんと自分を比べて変な引け目を感じてるんだろうな。
 見事に美春の思考をトレースするも、そんなことはおくびにも出さず、自分の持っているデータと照らし合わせながら由美に指示を出す。
「こっちの広尾インダストリーのほうはもう少し下げよう。それと……こっちのほうはもう広尾インダストリーに回してしまってもいいと思うよ。ここのコストが――」

 同じ頃。美春も恋人と同じようにイライラを押し殺しながら仕事をしていた。
 すっ、と眼鏡を中指で押し上げる。
「そろそろ本音で話し合いませんか」
 硬質な声で美春がひたと向かいの中年男性を見据えた。
 彼女の隣に座っていた若木はひやひやするも、事態を傍観するしかできない。
 一時間ほど前にこの会社に訪れてすぐ、相手方の担当者と美春、若木の三人で会議室に入り、交渉が始まった。
 それから、様々な書類を交換しつつ、話し合いが続いている中での美春の発言である。
「ずっと本音で話していると思いますが」
 相手はなにを言い出すのかという、わざとらしい顔をしてみせる。
 しかし、美春はそれに取り合わず、
「私どもの出せる数字はこれ以上でも、これ以下でもありません。あなた方のほうでもこれ以上を望むのは欲張りすぎと言うものではありませんか」
「そうは仰るが、こちらとしてもこの線は譲れませんよ」
 相手が手元の書類の一説をこつこつと指で叩いた。
 美春は出されていたお茶を一口すする。
 その隙に若木が口を挟む。
「剣菱さん。そろそろ折れましょうよ。いい落しどころだと思うんですがねえ」
「いやいや、ここは譲れませんよ。これはウチの生命線に関わることですから。はっきり言ってウチは今回の提携に社運をかけてますから」
「それはこちらも同じですよ」
「それこそ本音でお願いしますよ。あなたのとこみたいな大きな会社のセリフじゃないでしょう」
「またまた」
 狐と狸の馬鹿しあいを眺めていた美春が、静かに口を開いた。
「わかりました。こうしましょう」
 手にしたペンで書類の一文に線を引き、その横にさらさらと走り書きをする。
「これでどうでしょうか。私達があなた方の技術を高く評価している証明になると思います。これでダメなら四十万技研さんにこの件を依頼することになりますが」
 ライバル会社の名前を出された相手の中年男性は、いままでとは打って変わって、真剣な表情で追加された一文を睨んでいる。
 いままで交渉中にちらちらといやらしい視線を向けていた、美春のタイトスカートからすらりと伸びた脚にも見向きもしない。
 彼が薄くなりつつある頭のてっぺんに滲んできた汗をハンカチでぬぐった。
「会社のものと相談させていただきたい」
「もちろんかまいません」
「十分ほどで戻ってくると思いますので、少々お待ちください。……この書類を持っていってもかまいませんか?」
「もちろんです」
 勝利を確信したのか、美春がにっこり微笑んで返事をする。
 書類を片手に部屋を出て行った男を見送り、美春は深く息をついた。
 若木が彼女に話しかける。
「一時はどうなることかと思いましたが、なんとかなりそうだ」
「そうですね。最初のほうの助け舟ありがとうございます」
「いやいや、中年オヤジの相手は中年オヤジがしないと」
「そんなこと……やっぱりこういう交渉ごとは若木さんですね」
「黒山部長も、こういってはなんですが、以前よりも遥かに話の進め方が良くなってると思いますよ」
「そうですか? 自分ではいつもひどいものだと思うのですけれど」
「ええ。前はね、まるで相手の言い分を聞かない猛烈な感じだったのが、最近はこう、なんていうか……硬軟とりまぜた感じになってきてますからね」
 ドアが開き、相手が帰ってきた。
 すぐに腰を下ろすと、書類をテーブルの上に置く。
「この線でやらせていただきたいと思います」
「わかりました。良い返事をいただけて大変嬉しく思っておりますわ」
 お互いに立ち上がると、握手を交わす。
 満足げな美春の笑顔は、会議室に華が咲いたように華やかな空気を振りまいた。
 つられて相手も笑顔を浮かべる。
 会社の外にでて、タクシーに乗り込むと、美春が眼鏡をはずし目元を押さえた。
「――やっと一社」
「お疲れ様です」
「若木さんこそ」
 眼鏡をはずしたままの美春に笑顔でねぎらわれて、若木は年甲斐もなくどきどきしてしまう。
 生理現象で潤んでいるのだとわかっていても、レンズを挟まずに潤んだ瞳で見つめられると、つい勘違いしそうになる。
 相手が葛藤しているのにも気づかず、美春が再び眼鏡をかけ、気合を入れなおす。
「さあ、今日の分のあと三社。早く終わらせてしまいましょう」

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