出張二日目の夜。仕事を終えた美春はホテルのバーで若木とささやかな祝杯を挙げていた。
 難航するだろうと思われていたのだが、予想外に話が進んだ。その結果、予備日として取ってあった三日目が急遽休日になるほど順調に仕事が終わったのだ。
 平日と言うこともあってか、客はそれほど多くない。店内は落ち着いた雰囲気で、耳障りにならないよう静かにジャズが流れている。店の隅にある年代者のジュークボックスから聞こえてくるようだ。
 カウンターに並んで座っている二人は、知らない人間が見れば恋人同士のようにも見えるだろう。
 若木は周囲の男性客の羨望のまなざしを感じた。それが事実無根の嫉妬だとわかっていながら、彼はそれを訂正する気にはならない。優越感でつい顔がほころぶ。
「とりあえず、今回の出張が上手くいったことを祝して乾杯」
「乾杯」
 若木の掲げたグラスに美春が自分のグラスを合わせる。小さく澄んだ音がした。
 美春は手にしたグラスを傾けると、あっという間に飲み干してしまう。
 心得たバーテンがすぐに注文を受ける。
 あっけに取られた若木だが、すぐに気を取り直して美春に話しかける。
「珍しいですね。部長がそんなペースで飲むなんて」
「そういう気分なの」
 言いながらグラスに口をつける美春の姿は仕事の成功を喜んでいるようには見えない。祝杯と言うよりも、やけ酒のようだ。
 なにかあったのだろうか。
 年下の上司の飲み方を疑問に思いながらも、若木はそれを尋ねるきっかけを得ることができずに、他の話題でお茶を濁す。
「そういえば最近はやりの――」

 飲み始めて一時間も経った頃だろうか、美春が唐突に話題を変えた。
「ところで若木さんに聞きたいのですが――やっぱり男の人は若い女性のほうがいいものですか」
 若木は危うく手にしたチーズを落としそうになる。
 いったい今日の部長はどうしたのだろうか。明らかにいつもと違う。いままでは自分の家族の話――上の娘が思春期で難しい年頃だとか、下の息子のやんちゃぶりに手を焼いていること――や明日の休日をどう過ごすかなどだったのに。
 混乱した気持ちを静める時間を稼ぐために酒を飲むが、アルコールが更なる混乱を招くだけに終わってしまう。
「……別にそんなことはないと思いますが」
「本当にそう思いますか?」
 美春の目尻が酔いに染まって薄桃色になっている。
 微妙に焦点の定まらない濡れた瞳で見つめられて、若木は美春が自分を誘っているのではないかと妄想を抱いてしまった。
 それに気づいた様子もなく、美春が艶っぽいため息をつく。
 いつの間にボタンが外されたのか、美春のシャツの胸元が開いている。彼女が首を動かすたびに豊かな胸が揺れ、わずかに見える谷間が歪む。
 そんなものを見せられれば大抵の男は落ちるだろう。現に若木も愛する妻と子供を思い浮かべ、部長にそんな気があるわけない、勘違いするなと、必死で自分に言い聞かせていた。
 このあたり、美春は自信の魅力をまるでわかっていない。以前、山中にも指摘された部分である。
「でも……男の人からすれば年上の女より、同年代か年下の女の子を選びたくなるのではありませんか? 失礼ですが奥様は年上ですか、年下ですか?」
 まずいと思ったが、嘘をつくわけにもいかず、若木は正直に答えた。
「うちのは三歳年下です」
「やっぱり……」
 悲しげに美春が呟く。
「どうしてそんな心配をしてるんですか。部長はまだ三十代でお若いでしょう。第一こんなに美人なんだから年齢なんて気にする男はいませんよ」
「お世辞を言ってくださらなくても結構です」
 若木の正直な気持ちだったが、美春には届かなかったようである。
 彼女は勢いよくグラスの酒を飲み干した。何杯目になるだろうか。そろそろ数えるのが恐ろしくなる頃のはずだ。
「部長、そろそろペースを落としたほうが――」
「大丈夫で、す」
 部下の言葉を無視して美春はバーテンにさらに酒を注文する。アルコールのせいで少々滑舌が悪くなっている。
 美春が酒の入ったグラスのふちを舐めた。舌が艶かしくガラスを濡らす。
「きっと若木さんも私のことを扱いにくい女だと思っておられるのでしょうね」
 半ば独り言のように呟かれた言葉を、どう受け止めたものか若木は頭を悩ませる。
 なぜかはわからないが、今の彼女はひどく自分に嫌気が差しているようだ。
 気のいい若木は上司をどう慰めたものか考えながら、バーテンにつまみを注文した。
「……創平くん」
 美春の唇がかすかに動き、愛しい男の名前を呟く。
 普段の彼女なら他人のいる前で山中の名前を呼ぶことなどないが、そんな判断もできないほど酔っていたのだろう。
 しかし、幸いにと言うべきか、その声は若木の耳には届かなかった。

進む
戻る

作品選択へ戻る