「部長の顔を見るのも久しぶりですね」
 昼休みになって、三日ぶりに出社してきた美春に久居が話しかけた。
「久しぶりというほどでもないでしょう。たった三日よ」
「なに言ってるんですか。俺が部長のいないこの三日間どんなに寂しい思いをしたか」
 部下の軽口を笑って聞き流していた美春だが、次の久居の言葉に、わずかに眉間にしわがよった。
「部長一筋の俺と違って山中の奴は美穂ちゃんと色々あったみたいですけどね」
 山中が慌てて会話に入り込む。
「ちょっと、久居さん! だからアレはなにもないですってば」
「……なにかあったのかしら」
 美春の微妙なためらいに気づくことなく、久居は山中をからかうように楽しげに説明し始める。
 それを慌てて遮ろうとするのだが、美春の鋭い視線に射殺されて、山中の手は空をきるのが精一杯。
「昨日、仕事が終わったあとみんなで飲みに行ったんですよ。で、こう皆で盛り上がってるときにふと気づいたら由美ちゃんと山中の野郎の姿がない。携帯に電話しても繋がらないしで、こりゃあ間違いなく二人でなにやらやらかしてるに違いないと――」
「だから、あれはたまたまですって! 由美ちゃんが気分悪いって言うから外にいただけですよ。店を出るとき会ったでしょうが」
 必死に山中が弁解するも、誰も彼の味方をしない。
 それどころか、久居以外の人間も、事実がどうであれ面白ければよいと、はやし立てるものばかりである。
「そういえば普段から怪しいとは思ってたんだよ」
「私なんか二人がなにか楽しそうに話してるの見ちゃった」
「みんな今頃気づいたのかよ。俺なんかずっと前から気づいてたぜ」
「まったく油断も隙もないとはこのことだな」
「お似合いだと思うわ」
「山中め、上手いことやりやがって」
「へぇ……。二人がそんな関係だったなんて知らなかったわ」
「まったく、山中の野郎ときたらどうしようもない奴ですよ」
 久居が嬉々として同僚の悪口を言う。
「でも、二人とも年も近いことだし、若い子は若い子同士でいいんじゃないかしら」
 朗らかな調子の美春の声だったが、山中には底冷えのする吹雪の音のように聞こえる。
「部長! 本当になにもないんですってば」
 縋るように美春に言う山中だったが、上司は冷たく笑うのみ。
「あら、別にいいじゃないの仕事に影響が出なければ社内恋愛大いに結構よ」
「みっ、部長。そうだ、柿崎さん! 外で休んでただけだよね」
 それまで他人事のように聞いていた由美に、山中が蜘蛛の糸を見出す。
 突然、話をふられた由美はしばし考え込むように口元に手をあてる。
 その場の視線が一斉に由美に集中した。特に眼鏡の奥の美春の瞳の動きが一段早かった。
 しかし、山中の善行が足りなかったのか、救いの糸はぷつりと切れてしまう。
「えっ? 私ですか? あのときは、酔ってたからあんまり覚えてないんですけど……山中さんが私のことを優しくお世話してくださったのは、覚えてます」
 そう言って意味深に微笑む由美の表情から、なにもなかったなどと読み取るものなどいない。
「ちょっ……!」
 山中の顔が絶望に青ざめる。
「慌てなくてもいいわよ。山中君は悪いことをしているわけじゃないんだもの。さて、誰か一緒にお昼ゴハン食べにいかないかしら?」
「あっ、僕行きます」
 一緒に食事をするなら弁解する時間ができる。そう考えた山中が素早く手を挙げる。
 しかし、ちらりと山中を見ると、美春はすぐに彼を切り捨てた。
「あなたはだめよ」
「えっ! どうし――」
 山中は最後までしゃべらせてもらえなかった。
「だって、二人の邪魔をしちゃ柿崎さんに悪いもの」
 頭を抱える山中を放って、美春は数人の部下とともに部屋を出て行く。
 一行の最後に部屋を出た久居が、いつかの自分のようにわざとらしく頭を下げるのが、山中の視界の隅に移った。
 椅子の一つも蹴りたいのをぐっと我慢して、山中はポケットからタバコを取り出した。そこで室内は禁煙だと思い出し、喫煙所に向かう。
 タバコをくわえながら喫煙所に到着すると、自販機で缶コーヒーを買う。
 タバコに火をつけると大きく煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「なんであの人は……」
 精神的に疲れるとタバコを吸いたくなるのは自分の悪い癖だ。そうわかっていてもやめられない。
 手にした缶コーヒーを開けることもなく、山中はじっとタバコを吸い続けた。
 しばらくすると、山中は灰皿に山盛りになった灰の中に、タバコを押し付け呟いた。
「しかたない。あのことを話してしまおう」

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