その夜、美春は憂鬱な気持ちでマンションに帰ってきた。
 もっと大人にならなくてはと思うのだが、山中のことになると子供じみた嫉妬を抑えられない。
 結局、昼休みが終わったあとも山中と話すことはなかった。
 山中のほうは何度も話しかけようとしたのだが、彼女がそれを避け続けたのだ。
 誤解だということを伝えるメールが何度も携帯電話に届いたが、美春は返信もせず無視し続け、こちらの様子を窺う山中の視線を始終気にしてはいたものの、それだけでなにもしなかった。
 そんな美春の態度にとうとうあきれ果てたのか、山中は美春の退社する時間を待つことなく、さっさと自分の仕事を終え、先に帰ってしまったのである。
 もしかしたら帰り際になにかあるかもしれないと考えていた彼女は、勝手だと思いながらも、ひどくショックをうけた。
 とぼとぼとマンション玄関にやってくると、オートロックを解除するためにボタンを押していく。
「美春さん」
 突然声をかけられ、美春はぎょっとして振り向いた。山中が嬉しそうな顔をして立っている。
 つい顔がほころびそうになるのを慌ててこらえると、心とは裏腹な厳しい表情をつくる。
「どうしてあなたがここにいるの!?」
 思わず声が大きくなってしまう。
「美春さんに会いに来たにきまってるじゃないですか」
 思いがけない言葉に喜びがこみ上げるが、口から飛び出したのは辛らつな言葉だった。
「あなたに美春なんて呼ばれる筋合いはもうないと思うのだけれど」
 そんなことを言うつもりじゃなかったのに! 来てくれて嬉しいのに! 美春の心が悲鳴をあげた。
 だが、言った後に後悔しても手遅れである。
 美春は己のつまらないプライドをこれほど憎らしく思ったことがなかった。
 それでも山中に背中を向けると、平静を装いながらオートロックを解除して、すたすたとマンションに入る。
 山中も美春に引っ付くようにしてマンションに入っていく。
「勝手に入ってこないで。警備員を呼ぶわよ」
 エレベーターを待ちながら、美春が山中に鋭い言葉を投げつける。もちろん本当に呼ぶ気などない。
「僕の話も聞いてください。本当になにもないんですから」
 山中が必死に美春に話しかけるが、美春は聞く耳を持たない。
「どこまでが本当かしら」
「全部ですよ。チームのみんなは面白がってるだけです」
 エレベーターのドアが開く。
 美春は山中に視線を向けることすらせずに乗り込む。
 当然、山中も後に続く。
 音もなくドアが閉まり、密室に二人きり。
「あの……美春さん」
 おずおずと山中が話しかけるも、美春は微動だにしない。
「私みたいなおばさんの相手してる暇があったら柿崎さんと仲良くしたほうがいいんじゃない」
「だから、それは全部誤解なんですってば。どうやったら信じてもらえるんですか」
 山中の言葉を信じたい。だが、美春はそれを伝えるきっかけを見つけ出せずにいる。
 信じていると口にすべきか否か。なにか些細なことでもいい、きっかけさえあれば。美春は下唇に軽く歯をたてた。
 そんな葛藤などお構いなしに、エレベーターは指定された階に到着すると、扉を開いた。
 重い空気の箱から飛び出すように足早に美春が自分の部屋に向かう。
 慌てた山中もあとを追う。
「……美春さん!」
 歩きながら鍵を取り出していた美春は素早く鍵を鍵穴に入れようとするが、あせってなかなか上手く入らない。
「美春さん。僕の話を聞くぐらいなら罰は当たらないでしょう」
 震える美春の手に己の手を重ねながら、山中が愛しい上司の瞳を見つめた。
 しばらく黙っていた美春がゆっくりと唇を動かす。
「どんな話があるっていうの。昼間の柿崎さんの態度はいったいなんだって言い訳する気かしら」
 美春の問いに、山中は静かにため息をつくと答え始めた。
「柿崎さんはプロジェクトチームをつくるときに美春さんが選んだメンバーじゃないですよね」
「ええ。井沢専務派の重役の一人の横槍で入れることになった子よ」
「彼女はその井沢派のスパイです。うちのチームの情報を逐一流してたらしいです」
 美春が中指で眼鏡の位置を直した。
「まあそんなことだと思っていたわ。井沢らしいやり口よ。それがあなたと彼女が仲良くしていることに関係あるのかしら」
 仮にも己の上司の名をはき捨てるように呟くと、美春が山中を促す。
「それで僕は相手の様子を窺おうとそれとなく彼女の周囲を監視していたんです。で、それほどたいしたことはしていないようなので放っておこうとしたんです。美春さんの目も怖かったです――」
 冗談めかした山中の言葉に美春が敏感に反応する。レンズの向こうの彼女の瞳はまるで笑っていない。
「……なんてことはなかったんですが」
 なんの役にもたたないフォローはなんの役にもたたないままマンションの廊下に消えた。
 じっとりと背中に汗が浮き出るのを感じながら山中が言葉を続ける。
「ええと……話を戻しますと、僕は放っておこうとしたんです。ところが向こうから接触してきまして――」

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