「ちょっと……いいですか」
 飲み屋に入って小一時間、ちょうど酒も回りきって盛り上がりも一段落といったころに、山中に由美が声をかけてきた。
 山中は意外な相手の姿を確認すると、手にしていたジョッキのビールを飲み干し、さりげないふりで返事をする。
「なに?」
「ちょっと外で話しませんか」
 周囲の人間はたわいもない話をしていて二人に注意を払っているものなどいなかったが、それでも由美は小声で山中に提案した。
 その様子で、かねてから自分が様子を窺っていたスパイがらみの話だと見当をつけた山中はそっと立ち上がる。
 由美もその後を追うようにして店の外に出る。
 店を出てすぐにある据え置きの灰皿の前に立つと、山中は黙ってタバコを取り出し火をつけた。
 その様子をなにも言わずに由美が見ている。
 ゆっくりと煙を吐き出すと、山中はおもむろに口を開いた。
「で、なんの話」
「わかってますよね」
 にっこりと笑った由美に、山中は混乱した。
 おそらく彼女は自分がスパイだということがばれたことがわかっているはずである。なのにこの余裕。普通はもっと困り果てたり、怯えたりするはずなのに。
 とりあえず、山中は相手の出方を窺おうととぼけることにした。
「なにを?」
 知らぬ顔をしてタバコをふかす山中に対して、由美は大げさに両手を広げてみせる。
「私が井沢専務のスパイだってことです」
 まるで今日の天気について話しているような気軽さである。
 ずばりと切り込まれて逆に山中がうろたえてしまう。
「ば、ばらしていいの?」
「だって山中さんは気づいてるでしょう?」
「それはそうだけど――」
 ここまであけっぴろげにこられるとは予想もしていなかった山中は絶句してしまう。
 呆れる山中を無視して由美がにこにこした顔のまま話し続ける。
「単刀直入に言いますけど、私鞍替えしたいんです」
「鞍替え?」
「はい。この数ヶ月井沢専務の命令でスパイとして働いてきたんですけど、正直言って、もううんざりなんです。いつまでも自分の力を隠したまま働くなんて、わざわざ自分の能力以下の仕事しかしないなんて耐えられないんです。自分の能力をフルに活かして働きたいんです。結果を出したいんです。井沢専務はスパイをさせてるくせに、私が色々報告してもなにも手を打とうとしないし、それじゃあ私はなんのためにスパイしてるのってことですよ。第一、そんなどうでもいい扱いをうけてるような仕事のせいで、黒川部長のほうのチームの仕事に全力を注げないのは納得いかないんです。どう考えてもこっちの仕事のほうが会社にとって有意義ですし、自分のためにもなると思うんです」
 このあたりの考えは山中には理解できない。
 今でこそ美春に力を知られてしまったから、怠けて彼女に嫌われるわけにはいかないと真面目に働いているものの、本来彼はできるだけ楽に、できることなら給料以下の働きがしたいという人間なのだ。
 しかし、由美の次の言葉で山中もある程度納得した。
「それに、スパイをしていたせいで両方をじっくり知ることができたっていうこともあります。井沢専務よりも黒川部長のほうがどう考えても上ですから。どうせ働くならよりよい上司の下で働きたいじゃないですか。いまだって働いてますけど、もっときちんとね。人間的にも、仕事的にも井沢専務じゃ黒川部長には勝てないですよ。勝ってるのは地位だけです。それだって将来的にはどうなるか」
 なかなかにシビアな由美の言葉を、山中はタバコの煙とともに飲み込む。
「それに個人的にも好きですし、黒川部長。きっとあの人だったら私のことちゃんと活かして使ってくれると思うんです。井沢専務は私への扱いひどいですし。スパイみたいな汚れ仕事をさせてるくせに」
 自分の本当の上司に対して怒った様子の由美を眺めながら、山中は二本目のタバコに火をつけた。
 井沢専務人望ないなあ、と心中で呟きながら。
「えっと、柿崎さんの言いたいことはわかった。けどなんでそんなことを僕に言う必要があるの」
「私が黒川派になったら絶対に井沢専務からなにかあるじゃないですか」
「まあ裏切り者だから」
「そのときに守って欲しいんですよ」
「そんなこと僕じゃなくて部長に直接言えばいいじゃないか」
「部長にスパイだってことを告白したらそれで切られちゃうかもしれないでしょう。そうならないように上手く口ぞえというか、フォローをして欲しいんです。山中さんって黒川部長の右腕、っていうか恋人ですよね?」
「……」
 誰にもばれていないと思っていたのに。
 意表を突かれた山中は返す言葉がない。
 できたことといえば、せいぜいあせった顔を慌てて取り繕うことぐらいである。
「だから私のこと注意してたんでしょう?」
「まあ、ね」
 山中は素早く思考をめぐらせる。
 とりあえず、彼女の言葉を信じてみよう。そうすると美春さんに悪い話ではない。
 優秀な部下が一人増えるわけだし。なにしろいままで誰にも気づかれなかった自分達の関係に気づいたぐらいだ。色々と目端が利くのだろう。
 その上、井沢のスパイにもなれるってことだからな。
 もしこれが罠だとしても――井沢がここまで凝ったことをするとも思えないけど――いざとなれば僕がなんとかできるだろう。
 実際にはもっと細かく、様々な可能性を考慮したのだが、大雑把にまとめると以上のようなことを山中は考えた。
 そして、くわえていたタバコをもみ消すと言った。
「いいよ。折をみて部長に話しておくから安心して」
 その言葉に由美の顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか! やったそれじゃあよろしくお願いします」
 喜び勇んで右手を差し出す由美。交渉成功を祝って握手というわけである。
 しかし、山中はそれに応えない。
「その前に条件がある」
「なんですか」
 由美の表情が一変し、緊張した面持ちになる。
「僕と部長の関係を誰にも言わないこと。もう井沢には報告した?」
「なんだ、そんなことですか。わかりました誰にも言いません。あと井沢専務には報告してませんよ。さっき言ったのあてずっぽうですから」
 強張りがとけた茶目っ気たっぷりの顔で、由美は空を見上げた。
「なっ……!」
 開いた口の塞がらない山中は、目を大きく見開いて目の前の女性を見つめた。
 由美が人の悪い笑みを浮かべる。
「適当に言ったら当たっちゃったみたいでびっくりしましたよ」
 深い、本当に深いため息をつくと、山中は新たなタバコに火をつけた。
 深く、深くタバコの煙を吸い込み、時間をかけて吐き出す。
「ただ、一つ言っておくと黒川部長は恋人だからって仕事の話で特別扱いはしてくれないから、僕の口ぞえなんか役に立たないかもしれないよ」
 せめてもの抵抗とばかりに山中が口にしたが、由美にはまるで意に介した様子がない。
「かまいません。でも、秘密を知られたわけですから、これで私のこと見捨てられなくはなりましたよね。よろしくお願いします」」
 強引に山中の手を取ると、由美は一方的に固い握手をして微笑んだ。
 そしてそのとき、ガラガラと飲み屋の戸が開いて、同僚が数名顔を見せた――。

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