ジープに揺られて山道を走りながら、鶴下京一は猛烈な後悔に襲われていた。
 民俗学者をやっている叔父の頼みで軽いバイトに参加したつもりが、とんでもないところに連れて行かれるはめになってしまったからだ。
 話は一週間ほど前にさかのぼる。
 大学が夏休みに入ったので、サークルの夏合宿が始まる前に短期バイトでもしようと考えていると、叔父の雅彦から電話があった。ちょうどタイミングよくバイトをしないかというものだった。
 今までにも何度か叔父の手伝いはしていたので、バイトの内容がどんなものかはわかっていた。基本的には荷物持ち兼カメラマンである。
 民俗学という学問は基本的にフィールドワーク、つまり現地に行って古老の話を聞いたり、古文書、古跡を調べ、それを記録する作業が主になるのだが、その際に映像や音声を残すことが重要になってくる。たとえば方言などは文字だけでは記録できないからである。そのためインタビュアーの雅彦に代わってカメラマンをするのが京一の役目だった。
 叔父の話によると、今回はかなりの僻地に行くことになるらしい。遠い上に、かなりきついものになるかもしれないので、バイト代もいつもより五割増しでどうかという言葉に、学生らしく万年金欠の京一は一も二もなく飛びついた。幸いにもサークルの夏合宿の日程にはかぶらなかったので、なんの心配もない。……はずだった。
「話がうますぎるとは思ったんだ」
 京一の呟きはジープの揺れにまぎれて掻き消えてしまう。
 今日の朝七時に駅に集合してから新幹線で四時間、電車に揺られること三時間、そこからさらにレンタカーで五時間。それでもまだ目的地には着かない。
 車がジープだった時点でおかしいとは思ったんだよ。
 すでにジープに乗ってから五回、車酔いによってもどしている京一は力なく窓の外を眺めた。もはや胃の中は空っぽである。
 とっくの昔にまともな道ではなくなっている。数時間前から獣道を無理やり押し通っているようなものだ。
 長い電車旅を終えて、駅をおりてすぐのレンタカー屋でジープを前にした雅彦の言葉を思い出す。
「ちょっと山奥にある村だからね。普通の車じゃ厳しいんだ」
 そのときはなにも考えずにただ、ジープなどという珍しい車に乗れるのはちょっとラッキーだな、と考えてしまった。
 五時間前の自分をぶん殴り気絶させて、そのまま電車に放り込んで帰宅させたい。
 なにがちょっとだ。ここ本当に日本か? 知らないうちにインドとかにワープしてんじゃないだろうな。
 京一に毒づかれているのも知らずに、雅彦は気分よさそうに鼻歌を歌いながらハンドルを握っている。
「……お、叔父さんまだ?」
 息も絶え絶えに京一が尋ねると、雅彦は一時間ほど前と同じ答えを返した。
「あー京一。もうすぐだから、あとちょっとで着く。この坂越えたらすぐだ」
「さ、さっきも同じ、答えだったけど……」
「あ、ほら見えた」
 がこんと車体が大きく揺れ、斜めになる。急な斜面を登り終えた証だ。
 雅彦の声に、京一はのろのろと体を起こし前方に視線をやった。
 ちょうど坂の終わるあたりがぽっかりと開けて、小さな村があるのが見える。
 山と山の間。わずかな平地にしがみついているような村で、田畑の間にぽつぽつと家がある。
 家といっても、近代的なマンションなど一つもない。驚くべきことに藁葺き屋根の家ばかり。
「こんなとこにも人が住んでるんだ」
「もちろん。でなけりゃ何しにきたのかわからんだろうが」
 雅彦は軽く笑ったが、京一ならずとも、並の人間なら同様のことを口走っただろう。
 ジープは五分ほどして、村の入り口――別に門などがあるわけでなく、そこで森が途切れているだけ――にたどり着いた。
 すると、畑で農作業をしていた一人の村人がこちらに気づいたらしい。仕事の手を休め京一たちに向かって大きく手を振る。中年の男性らしいが、まるで子供のようである。
 雅彦がそれに応えるように大きく手を振ると、手でメガホンをつくって声を張り上げた。
「すいませーん! 山木さんはどこにおられますかー!」
「おー、おめさんたつがすんぞーが言ってだ学者さんけぇー! ぃんま呼んできでやっからよぉー、ちっと待ってれー!」
 ひどり訛りに京一が驚いていると、中年の男は返事を待たずに畑を飛び出し、あぜ道に止めてあった自転車に飛び乗ってやかましい音をたてながら村の奥へ走り去ってしまう。
 呆然と男を見送ると、京一は隣にいる雅彦の様子を窺った。
 叔父は動じた風もなくタバコを取り出している。
 京一は心の中で深く長いため息をついた。なんという僻地に来てしまったのだろう。まるで戦前の村のようだ。見たところ電気も通っていないようだし、携帯電話はとっくの昔に圏外である。
「えっと、何日いるんだっけ」
 甥の問いに、雅彦は考え込むようなそぶりで煙を空に向かって吐き出した。
「予定では一週間だな。もしかしたら数日伸びるかもしれんが」
「一週間か……」
 呟くと、京一はジープを降りた。大きく伸びをしながら深呼吸をする。都会ではどうやっても味わえない澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、あきらめに似た気持ちで覚悟を決める。来てしまったものはしょうがないのだから、一週間頑張ろう。避暑地に来たと思えばいいバカンスにもなる。
 京一が自分を誤魔化していると、がちゃんがちゃんと激しい金属音が聞こえてきた。
 先ほど山木を呼びに行った男が戻ってきたらしい。
 音のしたほうを眺めると、まだ男はだいぶ遠くにいる。よく音が聞こえるものだと京一は思ったが、周りに他に音を立てるようなものが一切ないせいだろう。都会にいると自動車や人の話し声、足音、電化製品など様々なことで雑音がする。普段はそれらの中で暮らしているため気づかないだけで、本来自然が出す音などせいぜいが動物の鳴き声程度のものである。
「ぃよぉー! もーすぐ来るっでよぉー」
 叫びながら男はどんどん京一たちに近づいてくる。どうやら農作業に戻るつもりはなさそうだった。
「おらぁ山谷大介っちゅうもんだぁ。おめさんたつよぉこんげな遠いとごまできんさったなぁー」
 ジープのそばに自転車を止めると、男は自己紹介をした。
「どうもはじめまして、鶴下雅彦といいます。民俗学の学者をやってます。こっちは鶴下京一、助手です。と言っても甥なんですがね」
「鶴下京一です」
 雅彦に紹介されて京一は軽く頭を下げる。
「へぇー。ちゅうこどはこん子が今度のまづりのぉー。はぁー」
 間延びした声でなにやら感嘆しながら、山谷が京一をじろじろと遠慮なく眺める。
「祭り? ってなに?」
 京一が小声で叔父に尋ねた。
「ん、ああ。今回ここに来た一番の目的だ。この村にはずいぶん古くから伝わる祭事があってな、昔から姿をほとんど変えずに今もその神事を執り行なってるそうだ。まあそれ以外にも色々と目的はあるが、それを見学しようというのが今回のメインだな」
 続けて京一が質問しようとしたとき、大きな声が聞こえてきた。
「おーい! 鶴下さーん」
 大きく手を振りながら、自転車に乗ったつなぎ姿の男が現れた。端村役場と書かれた帽子をかぶっている。こちらの自転車はやかましくない。
「おぉ、大介さぁ仕事に戻っとらんのけぇ。まださぼってっと清子さぁにおごられっで」
「ほっとげ、こんげな田舎に客が来るなんでめったにあるもんでねぇが」
「ん、確かにそげだな。おぉー、挨拶が遅れてしもってすまねぇな先生」
 自転車を降りた役場の男が帽子を取って挨拶する。
「いやいや、こちらこそご無沙汰してます。こいつは助手の鶴下京一、甥です」
 雅彦に背中を叩かれながら先ほどと同じように紹介され、京一は軽く頭を下げた。
「どうも、はじめまして鶴下京一です」
「よぉ、はずめますて俺は村長の山木新造だぁ。ほぉー、きみが祭りのぉー。京一君けぇー。京一君は運がえぇーでなんつっても今度の巫女は美人だでよぉ」
 京一は山木が村長を名乗ったことに少し驚いた。帽子から村役場の職員とばかり思っていたからだ。まだ三十の半ばくらいに見える。
「山木さん」
「お、おぉー。すまね、すまね、そっだら泊まっでもらうとこまで案内するでよぉ、ついて来でくれや」
 雅彦が名前を呼ぶと、山木は慌てたように何度も頷き、再び自転車にまたがった。


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